「御真影」の版間の差分

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{{要出典|date=2016年9月|[[宮内省]]から各学校に貸与され、[[奉安殿]]に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]と一緒に保管された。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。}}宮内省から「貸与」されている物だけに、非常に慎重な取り扱いが要求され、[[1898年]](明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の[[上田市立清明小学校]])で、火事により[[明治天皇]]の御真影が焼けてしまった際には、当時の校長・久米由太郎(小説家[[久米正雄]]の父)が責任を取って割腹自殺するという事件が起きたこともあった。また、[[1933年]](昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)で火事が起こって御真影が焼けてしまった際にも同様に、当時の校長が割腹自殺をした<ref>「御真影」に殉じた教師たち 岩本努・著 1989年4月 大月書店より出版</ref>。安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。
 
しかし天皇の写真が儀礼的に丁重に扱われたのは教育現場などごく少数に限られる事例であり、戦前の皇室の写真は大半が役所や学校などの公共空間ではなく、商業マスメディアを通じて各家庭に持ち込まれたもので、それらの扱い方については全く各家庭に任されていた<ref name=kohara/>。1[[890年代]]から皇室のブロマイドや絵は市中で大量に売られており、商業誌や新聞にも掲載された。皇室グラビアは国民から非常に人気があったので商業誌にとっては読者獲得のコマーシャルの要素があったためである。これら商業誌を通じてお茶の間に届けられていた天皇の写真は学校現場の御真影よりもはるかにバリエーションが多く、国民にとって身近な物であった。国民の皇室に対する心情には教育現場の御真影よりこちらの方が大きく影響したと見られている<ref name=koharamigita/>。
 
明治初期の頃には政府が民間が天皇の写真を販売するのを禁止した時期があり、複写して販売する写真家が出て[[1874年]](明治7年)4月には売買禁止が発令されたが、希望者が多かったため違反者は絶えず、[[1875年]](明治8年)2月にも禁止が発令された<ref>『クラシックカメラ専科No.38、プラクチカマウント』p.133。</ref>。しかし国民の間の需要は大きく、天皇の写真は闇で販売され続けた。そのため錦絵や石版画については比較的早期に黙認されるようになり、さらに[[1891年]](明治24年)には皇室の肖像画や写真画の販売が解禁され、[[1898年]](明治32年)には皇室写真の販売についても解禁された<ref name=koharamigita/>。
 
この解禁と印刷技術の発展によって商業誌や新聞は盛んに皇室の写真や絵の付録として付けるようになった。こうした皇室付録は当時の国民に非常に喜ばれ、これが付いている回は付いていない回と比べて売り上げが大きく上昇した。これらマスメディアによる写真販売を通じて大量の皇室グラビアが国民に広まった<ref name=koharamigita/>。当時輸入を担当していた小西六本店([[コニカ]]を経て現[[コニカミノルタ]])が[[1928年]](昭和3年)3月に出版したPR誌によると、[[昭和天皇]]夫妻の御真影は[[ヘリアー]]で撮影されている<ref>『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』p.125。</ref>。
 
==第二次世界大戦後==