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== 日本 ==
日本でも、第一次大戦の最中は船[[成金]]が勃興した(暗がりで紙幣を燃やして「どうだ、明るくなったろう」と述べる風刺画は有名)[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]の時代で、[[1980年代]]末期~[[1990年代]]初期の[[バブル景気]]と似た時代であった。
日本でも、第一次大戦の最中は船[[成金]]が勃興した(暗がりで紙幣を燃やして「どうだ、明るくなったろう」と述べる風刺画は有名)[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]の時代で、[[1980年代]]末期~[[1990年代]]初期の[[バブル景気]]と似た時代であったが、[[第一次世界大戦]]での[[連合国]]側参戦国として「戦勝[[5大国]](米・英・仏・日・伊)」として、旧ドイツ領[[委任統治領]][[サイパン]]や[[パラオ]]などの[[南洋庁]]管理地域を獲得した事で国際的な領土が大きく[[太平洋]]に拡がった為、それに対する移住ブームも起こっていた。この時点で[[南樺太]]と朝鮮及び[[台湾島]]までを国際的な日本領土として統治していたが、さらに敗戦国[[ドイツ帝国]]の植民地の管理国に指名された事で、スイス・[[ジュネーブ]]に新しく設立された国際機関[[国際連盟]]から委託され、国際的には列強の一員として[[国際連盟]](旧国連)の[[常任理事国]](日・仏・伊・英国)として戦間期を過した。国内では[[日英同盟]]に基づき、航空機産業が盛んとなり、第一次世界大戦における「[[第二特務艦隊]]」による地中海での活躍が評価された海軍は、新たに[[航空母艦]][[鳳翔]]などを建造し、[[タイ王国]]と[[中華民国]]及び[[大日本帝国]]以外の[[独立国]]が存在しなかった当時のアジア唯一の空母保有国として、明治以来の技術伝承で[[英国]]に次ぐ高い造船技術を誇っていた。この日英蜜月時代は、[[ワシントン軍縮条約]]の締結と四カ国条約締結まで続いた。この時期には人気映画俳優の[[チャップリン]]氏や、既に高い知名度を持っていた[[アインシュタイン]]博士が日本本土に来日するなど、初期は日英同盟や[[民主主義]]社会が[[大日本帝国憲法]]下にて形成され、大阪で発生した[[ゴーアンドストップ事件]]のように[[内務省]]と[[陸軍省]]の対立が発生する程に言論の自由が保障されていた為、[[立憲政友会]]など政党政治による[[立憲君主制]]が定着した。一般国民が[[日米]]友好感情を持っていた時期であったが、[[満州]]地域を巡り徐々に日米対立も発生していた。米国[[グル―]]駐日大使の活躍によって、戦後の友好関係に繋がる[[知日派]]人脈が[[米国]][[連邦議会]]内に形成されていた。
 
ところが、第一次大戦終結後の[[1920年]]になると[[株価]]が下落して[[戦後恐慌]]が始まり、[[1923年]]には[[震災恐慌]]、[[1927年]]には金融機関の破綻が相次ぐ[[金融恐慌]]など慢性的な不況に陥り、[[1930年代]]初頭は世界恐慌の影響で「[[娘の身売り]]」や「[[大学は出たけれど]]」のことばで知られる[[昭和恐慌]]の時代であった。
ところが、第一次大戦終結後の[[1920年]]になると[[株価]]が下落して[[戦後恐慌]]が始まり、[[1923年]]には[[震災恐慌]]、[[1927年]]には金融機関の破綻が相次ぐ[[金融恐慌]]など慢性的な不況に陥り、[[1930年代]]初頭は世界恐慌の影響で「[[娘の身売り]]」や「[[大学は出たけれど]]」のことばで知られる[[昭和恐慌]]の時代であった。[[中華民国]]とは[[第一次世界大戦]]において旧ドイツ帝国領[[青島]]を巡る意見の対立がありながらも、基本的には[[反共]]で一致していた「日中友好感情」が現在よりも明確であり、連合国として[[中華民国]]も対[[協商国]]参戦国家であった為、[[戦勝国]]側として[[蒋介石]]総統や[[袁世凱]]と相対する時期が長く、多くの中華民国籍留学生を受けて入れるなどしていた。この時期から[[ロシア内戦]]を経て成立した[[ソビエト連邦]]では、[[ロシア帝国]]内での連合国側が応援した[[白軍]]と戦っていた。[[南京]]を首都とする[[孫文]]が建国したばかりの[[中華民国]]とは、新たに西洋から東洋にかけてを席巻していた[[共産主義]]国家対抗([[シベリア出兵]])などにおいて、[[反共]]国家としての基礎的価値観を共有していた。当時の中国は[[中華民国]](ROC)として事実上の[[内戦]]状態にあり、[[張学良]]軍閥や[[租界]]など複雑な国家内勢力が存在していた。[[蒋介石]]は[[ポツダム宣言]]で一時的に戦勝国となった後に[[国共内戦]]によって、大陸を追われ、[[1949年]]に旧日本領[[台湾島]]に亡命し、大陸には新たに[[北京]]を首都とする[[中国共産党]]独裁国家[[中華人民共和国]]が冷戦期に建国された。[[アルバニア決議]]による[[中華民国]]の国際的孤立が発生した事で現在も続く[[二つの中国]]問題となり、[[冷戦]]時代の進展と民主化後も台湾は日本との同盟国として現在に至っている。この戦間期に興隆した日本の大企業として、[[南洋拓殖]]会社が存在した。[[宗谷岬]]から[[稚泊連絡船]]によって結ばれていた日本領[[南樺太]]には、[[鉄道]]も開業した。[[パスポート]]で国内として渡航できる範囲は戦後の日本領と異なり、[[国際連盟]]の定めた国際法によって[[1945年]]までは、現在の[[朝鮮半島]]北部[[新義州市]]の[[鴨緑江]]を境にした部分で、[[中華民国]][[丹東市]]と「日中陸上国境」が存在し、[[関東州]]と共に北緯[[50度線]]を境として北樺太を[[ソビエト連邦]]が支配しており、日ソ両国に[[樺太]]が統治されていた為、現在は存在しない[[日本]]と外国との陸上[[国境]]線が2か所以上存在していた。このため「陸上[[国境警備隊]]」も個別に組織されていた。この時期には[[札幌市]]と同様に、[[豊原市]](現:[[ユジノサハリンスク]])や[[台湾]]南部[[高雄市]]が拠点都市として成長した。[[http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/JapanSovietWar.html]]
 
== 参考文献 ==