「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」の版間の差分

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[[ヴァイマル共和政|ヴァイマール共和国]]時代、この都市とその周辺の選挙区は、[[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]]支持者の多い地区となり、[[1933年]]の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。
 
ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものであった。彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。1930年代を通じて、ナチスの下部組織である[[歓喜力行団]]は国中からローテンブルクへの日帰り旅行を定期的に組織した。この運動はローテンブルクの住民からは強く支持された。それは、この運動がもたらす経済的な利益のみならず、ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。これはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された<ref>Joshua Hagen, "The Most German of Towns: Creating an Ideal Nazi Community in Rothenburg ob der Tauber", Annals of the Association of American Geographers 94:1 (2004), pp. 207–227, ''passim''.</ref>。
 
ここに理想的なナチスの地域社会が作り出されることで、ドイツの人々はナチスが求める家族や地域社会としての生活のありようを連想した。ローテンブルクは、ナチスの思想を理想的な家庭生活として明瞭に具現化していた。更に、他のドイツの街もナチスを支持してローテンブルクに作られた「例」に続くようになり、これが、ローテンブルクに「理想的な」ナチスの地域社会を作るということにつながるナチスのドイツ国家主義の傾向の始まりとなっていった。これが発展して、当時のプロパガンダで描かれていたような、理想的なナチスの家族像を示すことにつながっていった。ナチスや[[ヒトラーユーゲント]]の中で育ち、そして市民としてあるいは軍人としてナチスドイツの思想と総統[[アドルフ・ヒトラー]]を守るというナチスドイツの少年教育が始まると、理想的なライフスタイルは更に奨励された。これがナチスの愛国主義の中核思想を形成し、彼らの信条となっていく。多くの方法で、ローテンブルクはナチスの運動の鍵となる要素を示し、国家社会主義者の考えをドイツ中、およびヨーロッパ中のドイツ語圏地域に広めるためのモデル地域となっていたのである。
 
[[第二次世界大戦]]の終戦直前の[[1945年]][[3月]]、ドイツ軍の兵士がローテンブルクに駐屯して街を守備していた。[[3月31日]]、ローテンブルクは、16機の[[アメリカ空軍]]機の爆撃を受け、39人が死亡し、306軒の家屋、6つの公共建築物、9つの望楼、そして市壁が600mにわたって破壊された。これは、保存されていた建造物の約40%以上を占める旧市街東部が損傷または破壊された事になる<ref>http://www.rothenburg.de/d/ISY/index.php?get=2351&exec=webprintable1 参照</ref>。この爆撃作戦の本来の目標は、[[オーバーフランケン]]の[[エーブラハ]]であったが、霧に覆われていたため攻撃できず、このため代理の目標として、軍事的な意義などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃されたのであった。損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。後に質問されたパイロットは、自分たちが文化遺産都市を爆撃していることにまったく気づいていなかったと答えている。
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