「没収試合」の版間の差分

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|1946年[[9月27日]]||{{*}}'''セネタース'''<br />{{*}}[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]<br />(西宮球場)||セネタースは[[西宮市]]に隣接する[[宝塚市]]に宿を取っていた<ref name="houki">当時は戦後すぐの食糧事情の厳しい状況下で、かつ宿に食糧を持ち込まないと宿泊ができなかったため、食糧の調達を容易にするために球場近くではなく、敢えて郊外に宿を取ることも珍しくなかった。また、市外通話をする場合は一度電話局を呼び出した上で交換手の連絡を待っていなくてはならず、現在よりずっと時間を要した。一般家庭には[[電話]]はそれほど普及しておらず、もちろん[[携帯電話]]などはなかった。</ref>が、当日の朝のセネタースの宿舎付近は雨天で、選手たちの大半は「試合中止」と即断して外出した。だが、西宮球場の周辺は11時には雨が上がり、13時開始予定の試合は挙行可能な状態になっていた。12時過ぎにセネタースの選手が数人球場入りしたが、9人は揃わなかったため、金政卯一球審は日本野球連盟と協議の上、ゴールドスターの選手たちを守備に就かせた上で試合開始を遅らせてセネタースの選手の到着を待ったが現れず、13時27分放棄試合が宣告された。セネタースには罰金5000円とファンに対する弁済金として10928円が科された<ref name="houki2">「日本プロ野球『事件史』」([[ベースボールマガジン社]]刊、2002年、P68。</ref>。
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|[[1947年]][[6月6日]]||{{*}}'''阪急ブレーブス'''<br />{{*}}南海ホークス<br />([[後楽園球場]])||阪急は[[松戸市]]に宿を取っていた<ref name="houki"></ref>が、当日の朝の阪急の宿舎付近は激しい雨が降っていた。念のため、阪急のマネージャーが状況確認の為に早朝に後楽園球場近くまで出かけたが、最寄の[[水道橋駅]]の駅員の「無理でしょう」の言葉を真に受け信じて、球場まで行って確認することなくそのまま松戸へ戻った。この日は変則[[ダブルヘッダー]]であったが、第1試合([[北海道日本ハムファイターズ|東急]]対[[読売ジャイアンツ|巨人]])の開始前には天候が回復して試合は予定通り開催。第2試合の阪急対南海も15時30分開始予定だったが、阪急ナインは結局現れず、[[島秀之助]]球審は15時35分に放棄試合を宣告した。阪急には罰金7000円が科されたが、前年セネタースに課された弁済金に関しては記録が残っていないという<ref name="houki2"></ref>。
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|[[1950年]][[8月14日]]||{{*}}'''南海ホークス'''<br />{{*}}[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]<br />([[県営富山野球場]])||9回裏、無死二、三塁から大映の[[板倉正男]]の打球を南海中堅手の[[黒田一博]]が捕球したが、長谷川信義二塁塁審は「ワンバウンドでの捕球である」として安打であると判定。これに対し[[鶴岡一人|山本一人]]監督<ref>当時監督兼選手で、この試合にも二塁手として出場しており、問題となった打球も黒田に近いところで見ていた。</ref>をはじめ南海選手が「(黒田は)打球を直接捕球しているではないか」として抗議、40分後に角田隆良球審が試合再開を促したにもかかわらず、南海選手が守備に就くのを拒んだため、放棄試合が宣告される。後日、[[パシフィック野球連盟]]による査問委員会が開かれ、南海球団には制裁金(罰金)10万円が科されたが、山本に対しては「相当期間の出場禁止処分に該当すると認めるが、今次事件発生に至る情状酌量すべきもの多々あり、また山本監督の仁徳、旧歴に徴し」と断った上で譴責処分を課すという異例の対応がとられた。さらに南海球団は独自に入場料払戻しの対応も行った<ref>「日本プロ野球『事件史』」、P69。</ref>。
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|[[1954年]][[7月25日]]|| style="white-space:nowrap;" |{{*}}'''[[阪神タイガース|大阪タイガース]]'''<br />{{*}}[[中日ドラゴンズ]]<br />([[大阪スタヂアム|大阪球場]]<ref group="注">この当時、大阪タイガースの本拠地球場である[[阪神甲子園球場]]には夜間照明設備が備えられていなかっため、大阪球場でのナイトゲームとして行われた。</ref>)||5-2で中日が3点リードした延長10回裏無死、この回の阪神の攻撃で代打に起用された[[真田重蔵|真田重男]]が、中日投手の[[杉下茂]]と相対し、カウント2-2からファウルチップした打球を中日捕手の[[河合保彦]]が落球したとして杉村正一郎球審はファウルと判定したが、中日側から「河合はファウルチップの打球を直接捕球したので三振になるはずだ」と抗議があった為、杉村球審は判定を覆して真田の三振アウトを宣告した<ref>[http://www2.plala.or.jp/ippeifuji/p-k2-27.htm 事件27] プロ野球考古学</ref>。これに対して阪神側が猛抗議し、その最中に[[藤村富美男]]が杉村球審に暴行を働いた(肩またはプロテクターを突いた)として退場を宣告された。この際に[[松木謙治郎]]監督も杉村球審に手を出して退場処分を受け<ref group="注">これは自らが矢面に立って連続試合出場を続けていた藤村へのペナルティを回避するためだった。</ref>、興奮した観客がグラウンドに入って試合が1時間7分中断。阪神は連盟への提訴を条件に試合を再開したが、藤村には退場宣告がよく伝わっておらず、自らの打順で打席に立とうとした。この件について充分な説明がなされていないとの理由で観客の阪神ファンが再びグラウンドに乱入。収拾が付かなくなったことから主催者の阪神に責任があるとして審判団は没収試合により中日の勝利とした。この一件で[[セントラル野球連盟]]は試合管理不十分として松木監督に対し出場停止5日と制裁金3万円、藤村富美男に対しては「放棄試合の原因を招いた責任は重大」として出場停止20日と制裁金5万円、松木退場後の監督代行を務めた[[金田正泰]]に「藤村の再出場を阻止できなかった」として戒告を科す処分を下した。またこの処分により藤村の連続試合出場記録は1,014試合でストップし、松木の体を張った苦労は報われなかった。<br/>また、その当時の公式記録はその回の表・裏両方の攻撃が完了して初めて成立する制度([[コールドゲーム#天災・日没でのコールドゲームのルール|コールドゲーム]]参照)だった為、10回表の中日の攻撃で[[杉山悟]]が阪神投手の[[駒田桂二]]から打った2点[[本塁打]]は無効となるおまけもついた。尚、この放棄試合の責任を取る形で阪神の松木謙治郎はシーズン終了後に監督を辞任した。[[大和球士]]は自著『プロ野球三国志』において、このトラブルを大阪球場の所在地にちなんで「[[難波]]事件」と命名している。
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|[[1967年]][[9月23日]]||{{*}}'''阪神タイガース'''<br />{{*}}[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]<br />([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])||1回表の大洋の攻撃、二死満塁で打席に入った九番打者の[[森中千香良]](当日の大洋の先発投手)が2ストライク後の投球を空振り。その球を阪神捕手の[[和田徹]]がショートバウンドで捕球し、三振バッターアウトが成立したと勘違いして当該打者(森中)へのタッチプレイ又は一塁への送球を行わず、スリーアウトによる両軍攻守交代と思い込んでそのボールをマウンドへ転がした。それを見た大洋ベンチが打者走者森中に「振り逃げが成立するからファーストへ走れ」と指示、また三塁走者の[[松原誠]]がホームインして大洋に追加点が入った。この間のプレーについて阪神監督の藤本定義が「打者アウトでスリーアウトチェンジではないか」と[[大谷泰司]]球審に抗議し、その際に胸を突き退場。その後阪神が試合の続行を拒否したため放棄試合となる。この試合は[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]最後の没収試合となっているとともに、阪神は史上初となる2回目の放棄試合の加害者となっている。セントラル野球連盟は阪神球団に戒告、藤本に戒告と制裁金5万円、さらに藤本の退場後に代理指揮を委ねられながら、試合再開のための適切な処置を取らなかったとして、[[後藤次男]]コーチにも戒告の処分を科した。また、阪神球団は独自に観客848人に入場料の払い戻しを行った。ただし、この試合に関しては大谷球審が藤本への退場宣告の直後にプレイをかけ、その1分後に「ゲームセット」の宣告を行ったため、阪神側の「試合再開の意思はあったのに、大谷球審が規則を杓子定規に運用した」という主張をセントラル野球連盟が一部認める形で放棄試合の処分としては他と比べて軽いものとなった<ref>「日本プロ野球『事件史』」、P76-77。</ref>。
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|[[1971年]][[7月13日]]||{{*}}阪急ブレーブス<br />{{*}}'''[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]'''<br />(西宮球場)||7回表のロッテの攻撃にて打者[[江藤愼一]]がカウント1ボール2ストライクからハーフスイングでバットを止め、一度は主審の[[砂川恵玄]]球審一度はボールと判定したが、阪急の捕手[[岡村浩二]]がスイングアウトをアピールした為すると、砂川球審は一転してストライクと判定し、その結果、江藤は三振凡退となった。その判定を巡り、三塁ベースコーチの[[矢頭高雄]]が「一度はボールとコールしたじゃないか」と抗議し、主審の砂川球審に暴行したため退場処分となる。またロッテベンチも監督の[[濃人渉]]ら首脳陣が抗議を続けるが受け入れられなかった。その後ロッテは試合続行を拒否したため(これにはオーナーの[[中村長芳]]が「こんな審判の下で試合は出来ないから止めよう」と言う鶴の一声もあった。また、中村のメッセージの伝令役となった武田一義球団代表もベンチで濃人監督らと共に抗議を行った<ref>「日本プロ野球『事件史』」、P78-81。</ref>)、放棄試合が宣告された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09july/KFullNormal20090701158.html 【7月13日】1971年(昭46) ロッテ、オーナーの指示で濃人渉監督が放棄試合] 日めくりプロ野球 スポーツニッポン 2009年7月</ref>。<br/>上の阪神-大洋戦の放棄試合を受けて[[1968年]]に放棄・没収試合は厳禁という規定ができたことと、この試合は阪急の主催試合であったため、ロッテ球団は[[日本プロ野球機構|NPB]]に制裁金200万円・阪急球団に賠償金300万円近く、合計約500万円のペナルティを支払うことになった。なお、この責任を取り濃人監督は二軍監督に降格しシーズン終了後にスカウトに異動、後任監督には入れ替わりに二軍監督だった[[大沢啓二]]が昇格し、翌シーズン5年契約を結んだが、成績不振により1年で退団した。事態の発端を作った江藤もシーズン終了後に大洋ホエールズにトレードされた。なお、この試合を最後に放棄・没収試合は発生していない。
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