「フリードリヒ (下ロートリンゲン公)」の版間の差分

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フリードリヒに関する同時代の記録はほとんど残っていない。1020年頃、フリードリヒは古い王家の荘園で、母親から相続したバランの地にリンブルフ城を建てた。これが[[リンブルフ]]の街および後のリンブルフ公領の起源となる。
 
1044年に上ロートリンゲン公[[ゴツェロ1世 (ロートリンゲン公)|ゴツェロ1世]]が死去した際、神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は、ゴツェロ1世の次男ゴツェロ2世に下ロートリンゲン公位を、長男[[ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)|ゴットフリート3世(髭公)]]に上ロートリンゲン公位を与えた。しかしゴツェロ1世の死後まもなく、ゴットフリート3世は下ロートリンゲン公位をも皇帝に要求した。しかし皇帝ハインリヒ3世は[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の皇后[[クニグンデ・フォン・ルクセンブルク|クニグンデ]]の甥であるフリードリヒに下ロートリンゲン公位を与えた。
 
スタヴロ修道院長であった弟アダルベロ3世は1047年にメッツ司教となったが、この弟の支援により、スタヴロ修道院および[[マルメディ]]修道院のフォークト、そして[[シント=トロイデン]]修道院のフォークトの地位を確保した。