「奮龍 (ミサイル)」の版間の差分

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1944年([[昭和]]19年)初め、高度10,000 mを飛行可能な[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[B-29 (航空機)|B-29]]に対抗するために、海軍[[艦政本部]]第四部(造船部、船体設計担当)の吉田技術少佐が発案した。7月2日に、第四部首脳陣に対する「自動追尾噴進弾」の説明会が行われた。第一部(砲、火薬担当)の協力を得ることは困難だったため、第四部は艦政本部の研究機関である[[海軍技術研究所]]に吉田少佐が通う許可を与え、本格的に開発が始まった<ref name="kunimoto">国本康文「ていこく陸海軍謹製誘導弾技術報告」『[[丸 (雑誌)|丸]]』2006年10月号 [[潮書房]] P.96~99</ref>。
 
わずか10ヵ月後の1945年(昭和20年)[[4月25日]]には、[[高松宮宣仁親王]]臨席の元、[[浅間山]]で特型噴進弾二型の最初の発射実験が行われた<ref name="kimata">木俣滋郎『幻の秘密兵器 恐るべき先駆的技術の集大成』[[廣済堂出版]][[1977年]]<br/>(後に[[光人社]]NF文庫から再版 [[1998年]] ISBN 4-7698-2204-9)</ref>。この時は無誘導で発射され、飛行特性が調べられた<ref name="Funryu" />。2回目以降は無線操縦装置を備えて実施され、二型は、目視による[[ラジコン|無線操縦]]により左右旋回を繰り返した後に目標地点に20m離れた場所に着弾し、命中しなかったものの2回目の試験は成功と看做された<ref name="kunimoto" />。その後、十数基の試作弾が試験され、6月中旬には宣仁親王の裁可によって、特型噴進弾四型に「奮龍」の愛称が付けられた<ref name="kimata"></ref>。[[7月]]の試験でも無線操縦に沿って良好な機動性を示したが、速度が遅く左右へ振動する欠点が指摘された<ref name="kimata"></ref>。四型は伊豆半島の施設で三菱と[[空技廠]]の技術者によって設計され、より先進的な誘導装置を備え、[[ロケットエンジン]]は、[[長崎兵器製作所]]で[[桜花]]に搭載する予定で開発されて不採用となった[[液体燃料ロケット|液体燃料ロケットエンジン]]「[[特呂二号原動機]]」を流用し、燃焼室改良することで実用化の目途をつけた<ref name="kunimoto"></ref>。他の部品の完成を待って、[[8月16日]]に四型の最初の発射実験(エンジンの地上試験という説もある)が計画されたが、[[8月15日]]の[[日本の降伏|終戦]]までに液体[[ロケットエンジン]]は組み立て場に届かず、試作は中止。一切の資料は焼却処分された<ref name="kunimoto"></ref>。
 
== 設計 ==