「マジノ線」の版間の差分

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構想自体はマジノが提唱する前から存在したが、「一定の間隔ごとに要塞群を配備すべきだ」とする要塞地帯委員長[[ジョゼフ・ジョフル]]元帥と、「連続した要塞線を構築すべきだ」とする陸軍最高顧問[[フィリップ・ペタン]]元帥との間に確執が生じ、妥協案として対ドイツ国境においてはペタンの案が、また対ベルギー・ルクセンブルク国境においてはジョフルの案が採用された。もっとも、対ベルギー国境部分に関しては、ドイツへの[[宣戦布告]]後に本格的な建造が始まったが、結局間に合わなかった。
 
[[1936年]]、幾多の曲折を経てマジノ線は竣工。総工費は約160億フラン、維持費・補強費として更に140億フランが投じられた。難攻不落を期待されたが、[[第二次世界大戦]]開戦後の[[1940年]]に、ドイツ軍はマジノ線を迂回し[[アルデンヌ]]奇襲により国境をえる。アルデンヌの森は自然の要害で、重砲や戦車は通れず行軍は不可能であるとフランス軍は判定していたため、要塞構想の範囲から全く外れていた。しかしアルデンヌから国内に雪崩れ込んだドイツ軍の前に、フランスは満足な抵抗もできぬまま敗北を喫するに至った([[ナチス・ドイツのフランス侵攻]])。
 
[[1944年]]、[[ノルマンディー上陸作戦]]を経て[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が反攻を開始するとドイツ軍は守勢に回った。連合軍が独仏国境に迫ると、マジノ線の要塞はドイツ軍の防御拠点として利用された。しかし、一定の防御効果はあったものの、長期にわたって連合国軍を阻止することは出来なかった。
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また、対ベルギー国境に強固な要塞群が築かれなかったのは予算不足でも隣国に対する配慮でもなく、来るべき次の戦争において、ドイツ軍に正面攻撃を躊躇わせ、先の大戦同様ベルギーを通るように仕向けるための高等戦略であったとする説もある。
 
マジノ線から動かせなかったというのは、ドイツ軍が[[ジークフリート線]]をマジノ線に対面させる形で建設させていたため動かせなかったとうのがある。塹壕戦の発想で動いているため敵が強固な陣地を築いている時は相応の戦力で挑むしかなかったというのがある。