「ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ブルボン家]]の支流[[コンデ公|ブルボン=コンデ家]]の出身で、コンデ公[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|ルイ5世ジョゼフ]]の息子[[ブルボン公]][[ルイ6世アンリ (コンデ公)|ルイ・アンリ]](後のルイ6世アンリ)と[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の娘[[{{仮リンク|ルイーズ・マリー・バティルド・ドルレアン|en|Bathilde d'Orléans|label=バティルド]]}}の一人息子として生まれた。
 
[[バスティーユ襲撃]]後、[[フランス革命戦争]]にも参加したが、亡命貴族軍は解散を強いられた。アンギャン公は[[ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン=ゲメネー|ロアン]][[枢機卿]]の姪[[{{仮リンク|シャルロット・ド・ロアン]]|en|Charlotte Louise de Rohan}}と結婚し、その縁で枢機卿の邸宅があった[[バーデン (領邦)|バーデン選帝侯国]]へ父や祖父とは別に亡命し、平時のような生活を送った。
 
ところが[[ナポレオン・ボナパルト]]に対する暗殺計画(カドゥーダルの陰謀)の報復として、陰謀を企てた首謀者の一人であるとアンギャン公は誤認され、1804年に越境侵入したフランス軍に捕らえられた。同年3月20日にパリ郊外の[[ヴァンセンヌ城]]まで移送された後、軍事裁判にかけられる。判事員の7人の[[大佐]]の前に連行され、死刑判決を受けた。十分な反論も、上層部への報告もなく、1時間後には素早く銃殺処刑が実行された。