「防共協定」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎協定の拡大: 中ソ不可侵条約2016年9月23日 (金) 15:09‎ 転載と小セクション
193行目:
 
== 協定の拡大 ==
日本陸軍は防共協定を実質的な軍事同盟に発展させることを望んでおり、同盟によってイギリスおよびソ連の[[日中戦争]]介入を防ごうと考えていた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。1938年7月3日、[[板垣征四郎]]陸軍大臣は「時局外交に関する陸軍の希望」という文書を内閣([[第2次近衛内閣]])に提出した{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。7月19日の[[五相会議]]において「日独及ビ日伊間政治的関係ニ関スル方針案」が採択され、「(ドイツに関しては)防共協定ノ精神ヲ拡充シテ之ヲ対『ソ』軍事同盟ニ導キ」という方針が確認されている{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。このドイツとの同盟問題は当時「防共協定強化問題」と呼ばれているが{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}、これは同盟に反発する国内の抵抗を抑えるための方策であった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109-110}}。しかしソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110}}。同盟成立を重視する日本陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、[[イギリス帝国|大英帝国]]の影響を怖れる海軍及び外務省はこれに反対していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110-111}}。
日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2299}}。[[重光葵]]のように[[防共]]をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2329}}、大きな動きにはならなかった。
 
=== イギリスへの打診 ===
[[1937年]](昭和12年)11月6日、[[イタリア王国]]の参加により日独伊防共協定に発展した。このイタリアの参加により、協定の反英・反西欧的性格はさらに強まった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=47}}。1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119}}。日本の各部首脳ヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119-120}}。
日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2299}}。また、ソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110}}。
 
また、日本はあくま国内この協定も同盟成立ソ連に対抗重視するものと考えており、イギリス日本陸軍は英仏この協定させえるよう主張ていたが、[[イギリス側に拒否さ帝国|大英帝国]]の影響を怖る海軍及び外務省はこれに反対してい{{sfn|酒井哲哉三宅正樹|19902000|pp=2299110-111}}。[[重光葵]]のように[[防共]]をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが{{sfn|酒井哲哉|1990|pp=2329}}、大きな動きにはならなかった。
日本陸軍は防共協定を実質的な軍事同盟に発展させることを望んでおり、同盟によってイギリスおよびソ連の[[日中戦争]]介入を防ごうと考えていた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。1938年7月3日、[[板垣征四郎]]陸軍大臣は「時局外交に関する陸軍の希望」という文書を内閣([[第2次近衛内閣]])に提出した{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。7月19日の[[五相会議]]において「日独及ビ日伊間政治的関係ニ関スル方針案」が採択され、「(ドイツに関しては)防共協定ノ精神ヲ拡充シテ之ヲ対『ソ』軍事同盟ニ導キ」という方針が確認されている{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}。このドイツとの同盟問題は当時「防共協定強化問題」と呼ばれているが{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109}}、これは同盟に反発する国内の抵抗を抑えるための方策であった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=109-110}}。しかしソ連のみを主敵とする日本側と、イギリス・フランスも敵と考えるドイツ側との構想の違いがあった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110}}。同盟成立を重視する日本陸軍は英仏を敵に加えるよう主張していたが、[[イギリス帝国|大英帝国]]の影響を怖れる海軍及び外務省はこれに反対していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=110-111}}。
 
=== イタリアの参加 ===
[[1937年]](昭和12年)118621の[[中華民国]]とソ連の[[中ソ不可侵条約]]の成立によって、[[イタリア王国]]の防共協定参加によが決定的なものとな、[[ムッソリーニ]]首相は日本の東洋平和のための自衛行動を是認するという論文を発表、[[九カ国条約|ベルギー九カ国条約会議]]の会期中の1937年11月6日に[[日独伊三国防共協定|日本国ドイツ国間発展締結せられたる共産インターナショナルに対する協定へのイタリア国の参加に関する議定書]]に調印した。こ<ref name=hochi>報知新聞 1937.12.19-1937.12.22(昭和12)事変下本年回顧 (1)外交 (A〜D)神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(147-057)</ref><ref>[{{NDLDC|2959744/2}} 条約本文] - 国立国会図書館デジタルコレクション</ref>。イタリア王国の参加により日独伊防共協定に発展し、協定の反英・反西欧的性格はさらに強まった{{sfn|三宅正樹|2000|pp=47}}。1938年、リッベントロップは外相に就任し、以降のドイツ外交の主務者となった。しかし反英的でソ連と組むことも辞さないリッベントロップおよびドイツ外務省・海軍と、どちらかといえば親英的で、ソ連打倒を考えていたヒトラーという二つの外交路線が存在していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119}}。日本の各部首脳ヒトラーの意志のみを重視しており、後の独ソ提携で衝撃を受けることになる{{sfn|三宅正樹|2000|pp=119-120}}。
 
=== 満州・ハンガリー・スペインの参加 ===
また日本の指導下によって成立した[[満州国]]は防共協定への参加を熱望していたが、将来の日独伊三国の同盟構想が決定されていないこの時期の参加は、時期尚早と見る日本の反対により加盟は実現していなかった{{sfn|森田光博|2007|pp=103-104}}。しかしこの日本の反対はソ連を主敵とする決定が下されたことで解決し、またドイツも[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]の参加を希望することになった{{sfn|森田光博|2007|pp=104}}。これにより原署名国の三国がハンガリーおよび満州国を勧誘する形で協定の拡大が行われ、[[1939年]][[1月13日]]にハンガリーが、[[1月16日]]に満州国が参加を表明した。両国の調印は2月24日に別個に行われた{{sfn|森田光博|2007|pp=106}}。