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1924年、下中、安部、[[秋田雨雀]]、[[菊池寛]]らと「日本[[フェビアン協会]]」を設立。1926年12月5日の[[社会民衆党]]結成にさいしては安部とともに主導的役割を果たし、中央執行委員に選出される。委員長には安部、書記長には[[片山哲]]が選ばれた。党結成大会では自作の宣言を読み上げた。
 
1929年、[[東京市会]]議員選挙に2区([[小石川区]])から初出馬、市政の刷新を訴えた結果、東京全市で最高の得票で当選した。1931年、党満蒙問題調査委員として[[満州]](中国東北部)へ渡り、同年、下中、[[赤松克麿]]らと、国家社会主義運動懇談会に参加。運動の決裂後、下中らと新日本国民同盟を結成した。この間、[[丸山鶴吉]]の東京市政革新同盟常任幹事となり、疑獄事件で汚れた市政刷新運動を精力的に展開した。1937年、東京市会議員選挙に再出馬したものの、自ら育て上げた市政革新同盟の支援を得られず、落選した。以降は翻訳・評論、文化学会出版部の活動に専念。童話作家[[小川未明]]の作品出版にも奔走、1925年『小川未明選集全6巻』の刊行にこぎつけた。1940年9月16日、59歳で死去。
 
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