「明朝体」の版間の差分

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明朝体は[[木版印刷]]や活字による[[活版印刷]]における印刷用書体として成立した。木版印刷は、当初楷書で文字を彫っていたが、楷書は曲線が多く、彫るのに時間がかかるため、[[北宋]]からの印刷の隆盛により、次第に彫刻書体の風を享けた[[宋朝体]]へと移っていった。宋朝体が更に様式化し、[[明|明代]]から[[清|清代]]にかけて明朝体として成立し、[[仏典]]や、[[四書]]などの印刷で用いられた。清代に入り古字の研究成果がとりまとめられた『[[康熙字典]]』は明朝体で刷られ、後代の明朝体の書体の典拠とされた。『康熙字典』は『[[説文解字]]』など篆書や隷書で書かれた文字を明朝体で書き直したため、伝統的な書字字形と大きく異なった字形がなされた。
 
清朝が弱体化し、ヨーロッパ諸国が中国に進出するようになると、まず中国への興味から、その風習などと共に奇妙な文字が紹介された。中国進出を誇示する目的もあって、[[ナポレオン1世]]と[[パルマ公]]によってそれぞれ作られた『主の祈り』という本に使われた活字は[[フランス王立印刷所]]や[[ボドニ|ジャンバッティスタ・ボドーニ]] ([[:it:Giovanni Bodoni|Giambattista Bodoni]])の印刷所などヨーロッパの印刷所で彫られたものである。その後中国の研究が始まり、中国語の辞典や文法書などの印刷のために漢字活字の開発が必要とされた。また、ヨーロッパの進出とともにキリスト教禁制が無実になっていくと、[[宣教師]]がやってきて、教化のための翻訳を始めた。そのとき、東アジアにあった製版技術を利用しないで、金属活字の技術を持ち込んで使った。そして、どちらも、漢字を活字にするにあたって、明朝体を選択したのである。これは欧文の印刷で普通だった[[ローマン体]](漢字活字の開発は主に英仏米の勢力が中心であった)とテイストが合っていたためだとか普通だったからだとかいわれる。宣教の場面では、活字はヨーロッパで使われていたものを使用したり、現地で使用するのに一々木などに活字に掘り込んだりして作った。ヨーロッパで使用されていたもので、初めてまとまった量が作られたのは[[1715年|1715]]-[[1742年|42年]]のフランス王立印刷所の木活字で、ルイ14世の命になった。この活字はのち、ナポレオン1世の中国語辞書編纂のために拡充された。その後[[ジャン=ピエール・アベル=レミュザ]]の『漢文啓蒙』で使われた活字は、鋳造活字であった。木活字も鋳造活字もともに明朝体であった。19世紀中葉王立印刷所のマルスラン・ルグラン (Marcellin Legrand) は中国の古典の印刷の用に活字制作を依頼され、分合活字を制作した。ルグランの分合活字では、偏旁冠脚をそれぞれ分割して、より少ない活字製作で多くをまかなおうとしたもので、これも明朝体であった。
 
キリスト教宣教では、主に[[プロテスタント]]が伝道をになった。彼らは伝道する地域の言語で伝導することを重視し、そのために漢字活字の開発が重要だったのである。ヨーロッパから、例えばルグランの分合活字などの活字を取り寄せることもあったが、現地で活字を開発するものも多くあった。サミュエル・ダイア ([[:en:Samuel Dyer|Samuel Dyer]]) など幾例があるが、その代表例は上海の「[[英華書院]]」や「[[美華書館]]」である。英華書院は ''London Missionary Society Press'' の漢訳で、[[:zh:伦敦会|倫敦伝道会]] ([[:en:London Missionary Society|London Missionary Society]]) の宣教師が設立したものであり、美華書館は ''American Presbyterian Mission Press'' の最後期の漢語名称で、[[:zh:美北长老会差会|美北長老会差会]] ([[:en:American Presbyterian Mission|American Presbyterian Mission]]) の印刷所であった。特に後者では、6代館長に[[ウィリアム・ギャンブル]]が入り、スモール・パイカ(small pica = 11[[ポイント]]<ref>[http://www.thefreedictionary.com/small+pica small pica - Free Online Dictionary, Thesaurus and Encyclopedia]</ref>。普通のパイカ([[:en:Pica (typography)|pica]])は12ポイント)のサイズなどの活字の改刻を行った。これらのミッションプレスの活字は欧米から来た技術者が指導して制作された金属活字で、サイズも自国の活字サイズに基づくものであった。活字の大きさは、特定の大きさのみを作り、大きいほうから順に「1号」、「2号」……と呼んでいた。