メインメニューを開く

差分

m
link
[[1929年]]に親戚のつてで[[松竹蒲田撮影所]]に助手見習いとして入社した。入社以来、[[島津保次郎]]の下で[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]として活躍する。[[1932年]]に軍隊に入隊、当時は[[築地小劇場]]の手伝いやデモに参加したことから要注意人物とマークされていた。一年後に除隊し、[[1934年]]、当時10歳の[[高峰秀子]]が主役のナンセンス短編喜劇『ぬき足さし足・非常時商売』で監督デビューするが、評価は低かった。
 
以降は島津をはじめ、同じく島津門下生の[[五所平之助]]、[[豊田四郎]]や[[成瀬巳喜男]]の助監督を務めた後、[[1939年]]に『女こそ家を守れ』で本格的に監督デビュー、続いて[[東宝]]に移った島津保次郎が撮る予定だった[[岸田國士]]原作の『[[暖流 (小説)|暖流]]』を撮り、新人離れした演出で[[キネマ旬報]]ベスト・テン7位に選ばれた。この作品を機に、本作の[[高峰三枝子]]や『[[安城家の舞踏会]]』の[[原節子]]、『[[偽れる盛装]]』の[[京マチ子]]など主演女優の魅力を引き出す能力に定評があり<ref>[[朝日新聞]] [[2000年]][[11月27日]] 夕刊 P.5 惜別</ref>、「[[女性映画]]の巨匠」と呼ばれる。
 
さらに翌年、[[上原謙]]主演の戦意高揚映画『西住戦車長伝』を監督、キネマ旬報ベスト・テン2位に入る。また戦時中は[[1942年]]に『間諜未だ死せず』、[[1943年]]に『開戦の前夜』といった国策色の強い映画ながら、アメリカ映画ばりのサスペンス調の演出で人気を呼ぶ。[[1943年]]10月、撮影中に赤紙が届き、出征。軍隊では機関銃隊の小隊長として南方戦線に派遣され、のちに[[タイ王国|タイ]]の[[バンコク]]駐屯の第18方面軍司令部情報部を経て終戦時は[[辻政信]]が部長の情報部にいた。
24,796

回編集