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== 来歴 ==
[[1970年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[アルゼンチン]]代表選手となる。[[1973年]]に地元[[ブエノスアイレス]]のトーナメントでツアー初優勝。[[1975年]]の[[1975年全仏オープン|全仏オープン]]で4大大会の男子シングルス決勝に初進出を果たしたが、当時19歳の[[ビョルン・ボルグ]]に 2-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れて準優勝になる。[[1977年]]からビラスのキャリアは最盛期に入り、出場33大会のうち「17大会」に優勝した。この年は[[全豪オープン]]が「[[1977年全豪オープン (1月)|1月開催]]」と「[[1977年全豪オープン (12月)|12月開催]]」の2回行われたが、ビラスは年頭の1月開催の大会で[[ロスコー・タナー]]に敗れて準優勝になっている。その後、[[1977年全仏オープン|全仏オープン]]と[[1977年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]年間2冠を獲得し、全仏では2年ぶり2度目の決勝進出で初優勝を飾る。それから[[1978年全仏オープン|1978年全仏オープン]]で2年連続3度目の決勝に進出したが、ボルグに 1-6, 1-6, 3-6 のストレートで敗れ、全仏2連覇はならなかった。
 
ビラスは[[全豪オープン]]で、[[1978年全豪オープン|1978年]]と[[1979年全豪オープン|1979年]]に大会2連覇を達成した。全豪オープンは[[1977年]]に2度の開催があった後、[[1978年全豪オープン|1978年]]-[[1985年全豪オープン|1985年]]までは12月の年末開催だった。したがって、ビラスの全豪初優勝は2度目の全仏準優勝の半年後のことである。(全豪オープンの開催時期に度重なる変更が加えられたため、年頭の1月に開催される現在の感覚とは違う点が注意を要する。)ビラスは[[1974年]]から9年連続で世界ランキングトップ10位を守り、[[1977年]]に自己最高の2位まで到達したが、ボルグやコナーズの厚い壁に阻まれ、南米の男子選手として世界ランキング1位になることはできなかった。