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森園千歳 (会話 | 投稿記録)
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|退任日6 = [[1984年]][[6月16日]]
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'''ピエール・エリオット・トルドー'''('''トリュドー'''<ref>[http://www.montreal.ca.emb-japan.go.jp/jp/mailmag/140901.htm メールマガジン第191号 2014/09/01] 在モントリオール日本国総領事館</ref>、Pierre Elliott Trudeau、本名:Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau、[[1919年]][[10月18日]] - [[2000年]][[9月28日]])は、[[カナダ]]の[[政治家]]。第20・22代[[カナダ首相|首相]]を務めた。カナダ史上初めての[[20世紀]]生まれの首相である。国家としての[[アイデンティティー]]を明確にし、[[多文化主義]]や途上国援助などでカナダの再構築に大きな貢献をした。所属政党は[[カナダ自由党|自由党]](Liberal)。
 
== 来歴 ==
[[ケベック州]][[モントリオール]]出身の[[フランス系カナダ人|フランス系]]。[[モントリオール大学]]で学び、[[ハーバード大学]]大学院に進み、[[マルクス主義]]に強い興味を持っていたトルドーは[[共産主義]]と[[キリスト教]]に関する論文を書いた<ref>English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp. 145–146.</ref>。その後、[[パリ政治学院]]を経て[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]では[[ハロルド・ラスキ]]に師事するした(中退)<ref>English, John (2006). Citizen of the World: The Life of Pierre Elliott Trudeau Volume One: 1919–1968, p. 166. Toronto: Knopf Canada. ISBN 978-0-676-97521-5. pp.166.</ref>。
 
[[1970年]]の[[ケベック解放戦線]]が[[ケベック独立運動|ケベック独立]]を要求しイギリス貿易省クロス長官を誘拐、ケベック州労働大臣[[ピエール・ラポルテ]]を殺害した「[[オクトーバー・クライシス]](十月危機)」の際、[[戒厳令]]を敷き強硬手段で解決にあたったことは今でも賛否両論となっているが、トルドー[[ケベック州]]生まれの[[フランス系カナダ人]]でありながらケベック独立に反対し、内政の運営がきわめて難しい多文化国家であるカナダ社会において、カナダをひとつの国としてまとめようと強力なリーダーシップをとっていたことの一例である。[[1971年]]には「多文化主義宣言」を行い、[[公用語]]を英仏二カ国語とするなど現在の多文化国家カナダの原型を作り上げた。また、経済政策では[[ペトロ・カナダ]]を設立して石油産業の国有化を図った。[[1982年]]には[[1982年憲法|新憲法]]が制定され、[[イギリス]]との関係を明確にした。その後さらに対米依存主義脱却を目指した。
 
なお、[[ソビエト連邦|ソ連]]の駐カナダ大使として着任してきた[[アレクサンドル・ヤコブレフ]]とは深い交友関係を築き、トルドーはヤコブレフにちなんで自分の次男に[[アレクサンドル・トルドー|アレクサンドル]] (Alexandre) と名付け、さらに[[ロシア語]]風の[[サーシャ]]という愛称で呼ぶほどだった。
 
[[2004年]]に[[モントリオール]]の空港が、彼トルドーの名にちなみ[[モントリオール・トルドー国際空港]]と改名した。
 
==家族==