「ペトラルカ」の版間の差分

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その後、[[モンペリエ大学]](1319年-1323年)、[[ボローニャ大学]](1323年-1325年)で[[法学]]を修めた。法律を専攻したとはいえ、ペトラルカの主要な関心は詩作などの文筆活動と[[ラテン文学]]にあった。法学や法学生に反感を抱くようになった。
詩人[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]と友人になったのもこの頃である。ペトラルカはまた、中世にはだいぶん形の崩れていた[[ラテン語]]を[[古代ローマ]]の古典的作品の形式にならって純正化することを考えた。各地へ旅行して、古代の写本を熱心に研究した。
 
[[1326年]]に父の死を受けて、ペトラルカは[[教皇庁]]のあるアヴィニョンへ戻り、経済上の理由から[[コロンナ家|ジョヴァンニ・コロンナ]]ら、カトリックの聖職者のもとで書記として働いた。法学の勉強をやめていた。その後は休む暇なく執筆や読書に勤しんだ。ペトラルカは詩人また学者として名声を博し、[[1341年]]には[[ローマ]]カンピドリオの丘において[[桂冠詩人]](poeta laureatus)の栄を受けた。