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こうして海苔は日本の食文化に定着し、[[10世紀]]のころに[[源順]]の撰した『[[和名類聚抄]]』や『[[うつほ物語]]』には、甘海苔や紫海苔といった具体的な名称で海苔が登場している。
 
海苔は古くは天然のものを採るだけだったが、[[江戸時代]]になると養殖技術が確立し、[[東京湾]]で採れた海苔(紫菜)を[[和紙]]の製紙技術を用いて紙状に加工するようになって「浅草海苔」となり、現在市販されている'''板海苔'''が完成する。なお江戸の海苔の代表とされる'''浅草海苔'''の始まりに関しては諸説あるが、[[岡村金太郎]]著『浅草海苔』(1909年、博文館)においては、遅くとも[[長禄]]年間(1457~1459年)頃まで遡るとしている。『[[武江年表]]』には[[貞享]]のころ大森(後の[[東京都]][[大田区]][[大森 (大田区)|大森]])において海苔を作り始めたという記述があり、江戸時代後期には大森の海苔養殖技術が[[信濃国|信濃]][[諏訪地域|諏訪]]の海苔商人の行商を介して日本全国に伝わった。そのころ寛延3年(1750年)には信濃岩村田藩主が法事料理で海苔の入った吸物を食した記録も残っている<ref>『毎日新聞』平成13年10月4日号
</ref>。

海苔の生態が判らなかったため経験則を頼りとしており、その不安定な生産高から「運草」とも呼ばれていた。しかし[[昭和]]24年([[1949年]])にイギリスの[[キャスリーン・メアリー・ドリュー=ベーカー]](Dr.Kathleen Mary Drew-Baker [[1901年]]-[[1957年]][[9月14日]])が海苔の糸状体を発見、それまで不明だった海苔のライフサイクルが解明され、不確実な天然採苗に代わる人工採苗を実用化し、養殖が可能な地域の拡大にも繋がった。
 
[[山本山]]などお茶メーカーが海苔も扱うことが多いが、これは両者がいずれも湿気に弱い製品であることから製品の湿度管理のノウハウを両者に応用できることに由来する。山本山はもともと茶を扱っていた企業で、戦後に海苔に参入した。