「バターン死の行進」の版間の差分

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{{Quotation|バターン半島の戦闘に終始したわが夏兵団は、新たに中部ルソン島の戡定作戦のため、再び北方に反転することとなったが、四ヵ月に及ぶ密林の露営生活は、食糧の補給難と相俟って、将兵の体力を全く消耗し尽くしていた。その上不幸な事には、敵陣地を占領した途端に、皮肉にも敗走した米比軍が今まで悩んでいた悪性のマラリヤやデング熱の病菌に汚染した地域を通過するため、日本軍に伝染し、まるで敗退軍の復讐かのように重症患者が続出し、大半の将兵が罹病したが、新任務は一日の猶予も許さず、休養の暇もなかった。われわれは再び四十度の炎天を冒し、南部サンフェルナンドまで、舗装道路を徒歩で六十数粁(キロメートル)行軍せねばならなかった。窮余の一策として毎日午前二時に宿営地を出発し、二十粁の行程を遅くも午前十時頃までに、目的地に到着するよう、行軍計画を立てたが、落伍兵を激励しながら行軍するのは、全く容易でなかった。然るにわれわれと前後しながら、同じ道路を北方へ、バターンで降伏した数万の米軍捕虜が、単に着のみ着のままの軽装で、飯盒と水筒の炊事必需品だけをブラ下げて、数名の日本軍兵士に引率され、えんえんと行軍していた。士気が崩れ、節制を失っていた捕虜群は、疲れれば直ちに路傍に横たわり、争って樹陰と水を求めて飯盒炊事を始める等、その自堕落振りは目に余るものがあった。しかし背嚢を背に、小銃を肩にして、二十瓩(キログラム)の完全武装に近いわれわれから見れば、彼等の軽装と自儘な行動を、心中密かに羨む気持ちすらないとは言えなかった。戦後、米軍から、「バターン死の行進」と聞かされ、私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて、この時の行軍の実状を調査されたが、初めはテッキリ他方面の行軍と間違えているものと考え、まさかこの行軍を指すものとは、夢想だにしなかった。米軍は戦時中国民の敵愾心を昂揚するため、政略的に「死の行進」を宣伝し、戦闘で疲労した将兵に自動車を提供せず、徒歩行軍を強制したのは、全く日本軍の残酷性に基づく非人道行為の如く罵声を放ったものである。明かに日本軍の当時の実情に目を掩って、曲解したものと言わねばならない。しかも彼等が撒いた宣伝の結果は、無理にも刈り取ることが、政策的に必要とされた。その上比島の捕虜は、ルソン島中部のオードネル捕虜収容所に収容されてから、バターンの戦闘間流行した熱帯病或いは食糧不足のため生じた栄養失調で、病死者が多発した事も米軍が誤解する原因となったかもしれない。}}
 
=== 日本の謝罪 ===
[[2009年]]([[平成]]21年)5月に、[[藤崎一郎]]駐米大使が、バターン行進の生存者で作る団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」の年次総会に出席し、[[日本国政府]]を代表して、バターン死の行進について謝罪した。また[[2010年]](平成22年)[[9月13日]]にも、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[岡田克也]]が元捕虜と[[外務省]]で面会し、謝罪している<ref>{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010091301000252.html | title = 岡田外相、元米兵捕虜に謝罪 「非人道的だった」 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2010-09-13 | accessdate = 2013-05-22 }}</ref>。