「ハルジー朝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
m Bot: </br> → <br /> ∵Tag with incorrect syntax: Check Wikipedia #2
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
m Bot: [​[モンゴル帝国|モンゴル帝国]​] → [​[モンゴル帝国]​] ,Removed linktext ∵Check Wikipedia #64
84行目:
アラー・ウッディーンはモンゴル帝国の脅威がなくなると[[マリク・カーフール]]に命じ、積極的な[[デカン]]、[[南インド]]遠征を敢行し、[[ヤーダヴァ朝]]、[[カーカティーヤ朝]]、[[ホイサラ朝]]といったヒンドゥー王朝を服属させ、[[パーンディヤ朝]]の首都[[マドゥライ]]を落とし、[[1310年]]までにデカン、インド南部の大半を占領してデリー・スルタン朝に広大な版図をもたらした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.130</ref>。
 
また、この頃、現[[アフガニスタン]]の山岳地帯に駐留してたびたびインドに侵入してきた[[モンゴル帝国|モンゴル帝国]]の[[チャガタイ・ハン国]]軍を、ハルジー朝に仕える地方総督の[[ギヤースッディーン・トゥグルク]]らの活躍で撃退し、インドの自立を保っている({{仮リンク|モンゴルのインド侵攻|en|Mongol invasions of India}})<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>。
 
アラー・ウッディーンは、内政面においては、貴族統制のために密告を奨励したり、[[ヒンドゥー教徒]]の地方領主を抑圧して統制力を高め、厳格な物価統制や検地による経済と税収の安定化を行なうなど、強圧的に施策を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.129-130</ref>。さらに、デカン、南インド遠征の成功により得た多大な戦利品などもあって、ハルジー朝は文化的、経済的にも大きく発展することとなり、全盛期を迎えた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.129</ref>。だが、アラー・ウッディーンの晩年には奢侈に溺れ、早くも衰退の兆しが見え始めた。