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== 概要 ==
=== 前史 ===
[[奥州総大将]]、[[奥州管領]]などが前身である。[[元中]]9年
[[応永]]6年
=== 大崎氏の世襲 ===
応永7年
しかし、もともと奥州では有力国人が各郡の[[軍勢催促]]、[[軍忠状]]証判・注進、[[使節遵行]]など守護並みに強い権限を持っている上に、南半は鎌倉府の分身である笹川・稲村御所に押さえられ、内にも[[伊達氏]]や[[蘆名氏]]などは京都扶持衆として幕府と直接結びつき、強力な支配は不可能であった。それらの有力国人は、自己が支配する各郡を領国化し、次第に戦国大名化する。それに対抗するために[[大崎氏]]も自己の直接支配領域を領国化し、一有力国人へと零落していった。
[[大永]]11年
戦国時代にも幕府の形式的な職として存在し[[弘治_(日本)|弘治]]元年([[1555年]])には稙宗の子・[[伊達晴宗]]が奥州探題に任じられた。室町幕府滅亡後に当主となった[[伊達政宗]](晴宗の孫)も奥州探題を自称した。[[天正]]18年([[1590年]])、政宗は[[豊臣政権]]に臣従して奥州探題の称号を返上し、一方、臣従を表明しなかった大崎氏は[[豊臣秀吉]]によって攻め滅ぼされた。これによって奥州探題制は名実ともに終焉した。
また、[[斯波家兼]]の子[[斯波兼頼]]は[[正平 (日本)|正平]]年間
== 関連項目 ==
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