「オットー・ワーグナー」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
一部訂正 |
少し加筆 |
||
26行目:
== 生涯 ==
1841年、ウィーン郊外で公証人の家に生まれた。父は5歳のときに肺病で死去。母は遺産を元に賃貸住宅を建て、その設計を建築家ハンゼン([[:de:Theophil von Hansen|Theophil von Hansen]])に依頼している<ref>ゲレーツエッガー他『オットー・ワーグナー』(邦訳)鹿島出版会、1984年、P10。</ref>(ハンゼンはデンマーク出身で、[[オーストリアの議会|国会議事堂]]や[[ウィーン楽友協会
1857-1859年、ウィーンの工科大学、次いでハンゼンの勧めで1860-1861年に[[新古典主義建築]]の中心地であったベルリンの建築アカデミーで学んだ。ウィーン美術アカデミー<!---([[:de:Akademie der bildenden Künste Wien|Akademie der bildenden Künste Wien]])--->に進学し、1863年卒業。同年、ウィーン市立公園に建てる会館(Kursalon クアサロン)の[[建築設計競技]]に応募し1等賞を得たが、実際にはワーグナー案から大きく改変を受け建設された<ref>[[:de:Johann Garben|Johann Garben]]の設計により1865-67年に建設。</ref>。
初期の作品として、古典主義的な連邦銀行<!---ウィーン国立銀行--->、ワーグナー別邸、都市計画案アルティブス(Artibus)<ref>美術館を中心にした計画案で高く評価された。後にアカデミー教授に選出されたのは、この案によるところが大きいという。ゲレーツエッガー他、P20。</ref>などがある。この間、母親の意向により1863年に結婚。1880年に母が死去した後に離婚し、
1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンのための
1891年に作品集を刊行。1894年にハゼナウアーの後任として[[ウィーン美術アカデミー]]の教授に就任。1897年、画家[[グスタフ・クリムト]]を中心に[[ウィーン分離派]]が結成されると、ワーグナーの教え子[[ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ]]や[[ヨーゼフ・ホフマン]]が参加
ウィーンのカール広場に建設する博物館の建築設計競技(1907年)では、ワーグナーの案が当選したが、反対派のため紛糾し、結局実現しなかった。
後期の作品では、ウィーン郵便貯金局(1906年-1912年)、シュタインホーフ教会堂(1907年)などが挙げられる
1912年、71歳のワーグナーはアカデミーを停年となった。1914年まで客員教授として学生を指導した。妻のために第2の別荘を建てたが、1915年に妻が死去。[[第1次世界大戦]]中は失意の状態にあり、1918年に死去した。<ref>ゲレーツエッガー他前掲書、P45-48。</ref>
1980年代には500シリング紙幣の肖像として採用されている。▼
== 作品 ==
古典主義から出発し、ウィーン分離派に参加する頃から
* シナゴーグ
* グラーベンホーフ(1873年):ティーネマンとの共作。
* 連邦銀行(1884年)
* ワーグナー別荘I(1886年)
* ホヨース宮(1890-91年):自邸として建設した。
* アンカーハウス(1895年):古典主義的な構成であるが、低層部分をガラスのカーテンウォールとする。
* マジョリカハウス(1898年):壁面をアール・ヌーヴォー風の植物模様が覆う集合住宅。
* カールスプラッツ駅(1899年)
60 ⟶ 62行目:
:ウィーン美術学校の教授就任講義を元にしたもので、近代生活にふさわしい合理的・機能的な建築観を示している(初版1895年;中央公論美術出版からの邦訳は1901年の第3版が底本)。
== その他 ==
▲1980年代には500シリング紙幣の肖像として採用されている。
==注釈==
<references/>
68 ⟶ 73行目:
== Links ==
* {{de}} [http://amshistorica.unibo.it/diglib.php?inv=160''Einige skizzen 1''], Wien, [[1905年|1905]]. (作品集)
* {{de}} [http://amshistorica.unibo.it/diglib.php?inv=161''Einige skizzen 2''], Wien, 1905.
* {{de}} [http://amshistorica.unibo.it/diglib.php?inv=162''Einige skizzen 3''], Wien, 1905.
|