「近藤秀用」の版間の差分

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やがて、[[徳川四天王]]の一人である[[井伊直政]]が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。{{疑問点範囲|しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して[[伊勢国]]に逃亡した。|date=2015年9月}}
 
この一件について小宮山敏和は、初期の井伊家の重臣の人事は家康が直接関与しており、当主・直政以下の井伊家側は家康の許可なく勝手な人事はできなかったが(家康は基盤の弱い井伊家を強化するために直政寄騎の家臣を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えられている)、秀用は家康の許可を得ずに井伊家を離れてしまったため、そのことが家康に対する反抗であるとみなされたと指摘している<ref>小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」(初出:『学習院史学』40号(2002年)/所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)</ref>。
 
[[慶長]]7年([[1602年]])、直政が死去すると、[[徳川秀忠]]に召し出され、[[上野国]]青柳に5000石の所領を与えられた。慶長8年([[1603年]])になって[[池田輝政]]の仲介によって、ようやく家康の勘気が解かれた。慶長19年([[1614年]])には[[相模国]]内で1万石を加増され、[[小田原城]]の城番となる。[[大坂の陣]]にも参陣して武功を挙げ、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])に遠州[[引佐郡]]井伊谷へ転封、1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。元和7年([[1621年]])には2000石の加増を受けている。元和9年(1623年)7月、[[秋元泰朝]]、[[曽根吉次]]、[[阿倍正之]]と共に越前国の[[松平忠直]]改易後の相続に関する伝達および国務の任を受け、越前に派遣されている。寛永2年([[1625年]])には、石見守に叙任されている。
 
寛永8年(1631年)2月6日、85歳で死去。墓所は[[東京都]][[文京区]]本郷の大安寺。なお、所領は子の[[近藤季用|季用]]、[[近藤用可|用可]]、[[近藤用義|用義]]たちに分け与えて細分化したため、[[井伊谷藩]]は秀用1代で終焉。その後の近藤氏は[[旗本]]として徳川氏に仕えた。
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