「恭帝 (東晋)」の版間の差分

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[[知的障害]]とされる同母兄の[[安帝 (東晋)|安帝]]と異なり、英明な資質があったと評される。[[劉裕]]が安帝を殺害して簒奪しようとしているのを察知し、常に安帝の傍にいたが、[[義熙]]4年([[418年]])、司馬徳文が不在の際に安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや[[禅譲]]の布石としての傀儡に過ぎなかった。そして結局、[[元熙 (東晋)|元熙]]2年([[420年]])に劉裕に禅譲することを余儀無くされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による[[宋 (南朝)|宋]]王朝が成立したのである。この時、「[[晋 (王朝)|晋氏]](東晋)はとうに滅んでいたはずだった、何を恨むことがあろう」と言ったと『[[晋書]]』にはある。
 
司馬徳文は宋によって[[永州市|零陵]]王に封じられたが、翌年殺害された。
 
東晋の正統性を認めていない『[[魏書]]』によると、武帝の兵に服毒自殺を命じられたが、「[[仏教]]では、自殺者は人に[[転生]]できない」と拒んだので撲殺されたという。つまり、司馬徳文は仏教徒であった。また、同書によれば[[皇后]]褚霊媛の兄・[[チョ季之|褚季之]]と弟の[[チョ淡之|褚淡之]]は武帝に通じて、司馬徳文の子が生まれる度に殺害したという。
 
==宗室==