「バウハウス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
'''バウハウス'''({{lang-de|Bauhaus}}, バオハオスとも)は、[[1919年]]、[[ドイツ]]・[[ヴァイマル]]に設立された、[[工芸]]・[[写真]]・[[デザイン]]などを含む[[美術]]と[[建築]]に関する総合的な[[教育]]を行った[[学校]]。また、その流れを汲む合理主義的・[[機能主義 (建築)|機能主義]]的な芸術を指すこともある。学校として存在し得たのは、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]により[[1933年]]に閉校されるまでのわずか14年間であるが、その活動は現代美術に大きな影響を与えた([[モダニズム建築]]、[[20世紀美術]]の項を参照)。
 
'''バウハウス'''はドイツ語で「建築の家」を意味する。[[中世]]の[[建築]][[職人]][[組合]]である'''バウヒュッテ''' (Bauhütte, <small>建築の小屋</small>) という語を[[ヴァルター・グロピウス|グロピウス]]が現代風に表現したものである。
 
== 沿革 ==
20行目:
[[ドイツ帝国]]の[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル大公]][[ヴィルヘルム・エルンスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|ヴィルヘルム・エルンスト]]は、ベルギーの建築家で[[アール・ヌーヴォー]]に造詣の深い[[ヴァン・デ・ヴェルデ]]をヴァイマルに招聘した。[[1902年]]、ヴェルデは私設の「工芸ゼミナール」を設立し、1908年、「大公立美術工芸学校」に発展した。1911年には、ヴェルデ設計による工芸学校の校舎が建てられた。
 
ヴァン・デ・ヴェルデは{{仮リンク|ケルン・工作連盟展 (1914年)|de|Kölner Werkbundausstellung|en|Werkbund Exhibition (1914)|label=ケルンでのドイツ工作連盟展}}(1914年)で、[[イギリス]]の[[アーツ・アンド・クラフツ]]運動の影響を受け、規格化を重視した[[ドイツ工作連盟]]の[[ヘルマン・ムテジウス]]と衝突し({{lang-de|Typenstreit}}、'''規格化論争''')、[[1915年]]にドイツを去らざるを得なくなった。このため、工芸学校を建築家[[ヴァルター・グロピウス]]に託した。
 
=== ヴァイマルでの設立 ===