「カトリック連盟」の版間の差分

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ただし、このミュンヘン議会は連盟の体制作りには失敗している。[[6月18日]]、選帝侯である[[マインツ大司教]]、[[ケルン大司教]]及び[[トリーア大司教]]は、20000名の兵を編成することを提案した。彼らは、マクシミリアン1世を連盟の長とし、[[8月30日]]にマインツ大司教を共同首座としたミュンヘン合意に従うことを宣言するという構想をしていた。
 
体制作りのため、いくつか会議が開催された。[[1610年|翌年]][[2月10日]]にはオーストリア大司教とザルツブルク大司教をのぞく、主だった司教領の及び数多くの小規模の司教領の代表がヴュルツブルクに、連盟の組織、資金、軍備に関し決定するため集った。これが、[['''カトリック連盟]]'''の実質的な開始である。マクシミリアン1世から知らせを受けた[[ローマ教皇]]、[[神聖ローマ皇帝]]及び[[スペイン国王]]は、進んで協力することとした。
 
連盟の問題は準備不足であり、同年4月になっても資金は支払われず、マクシミリアン1世は辞任の危機にあった。これを避けるため、オーストリアに従った役割を期待されているスペインは、マクシミリアン1世の責任を問えるという条件を放棄したし、教皇は更なる援助を約束した。