マサチューセッツは1939年7月20日に[[マサチューセッツ州]][[クインシー (マサチューセッツ州)|クインシー]]の[[ベスレヘム・スチール|ベスレヘム・スチール社]]で起工した。1941年9月23日にフランシス・ラヴァリング・アダムズ([[チャールズ・フランシス・アダムズ (3世)]]の夫人)によって命名、進水し、[[ボストン]]で1942年5月12日に初代艦長フランシス・E・M・ホィッティング大佐の指揮下就役した。
就役後の整調訓練が完了すると1942年マサチューセッツは10月24日に[[メイン州]]カスコ湾を出港、4日後に[[トーチ作戦|北アフリカ侵攻作戦]]参加のため西部方面任務群と合流、し[[H・ケント・ヒューイット]]提督の[[旗艦]]となった。しかし、11月8日に[[カサブランカ]]沖合で[[フランス海軍]]の戦艦[[ジャン・バール (戦艦・2代)|ジャン・バール]]の砲撃を受けることになった。これに対するマサチューセッツも07:40に反撃を行い、ヨーロッパの枢軸勢力に対して砲撃を行った初のアメリカ軍艦艇となった。数分後にジャン・バールは沈黙し状態となり、続いてマサチューセッツはフランスの[[駆逐艦]]に対して砲撃、を開始し二隻を撃沈した。マサチューセッツはさらに沿岸砲台に向けて砲撃を行い、弾薬庫を破壊した。フランス軍との停戦が成立すると、マサチューセッツは11月12日に帰国の途につき、太平洋戦線へ向かう準備を行った。
マサチューセッツは1943年3月4日[[ニューカレドニア]]の[[ヌーメア]]に到着した。11月19日から21日[[ギルバート諸島]][[マキン]]、[[タラワ]]、[[アベママ]]を攻撃した空母群と行動した。12月8日に[[ナウル]]を砲撃。、1944年1月30日に[[クェゼリン]]をそれぞれ砲撃、2月1日に上陸を支援した。4月22日、[[ホーランディア]]侵攻に参加。し5月1日[[ポナペ島]]を砲撃。、その後ピュージェット・サウンドで[[オーバーホール]]した。。
[[File:MassKamaichi.jpg|thumb|left|200px|釜石市を砲撃するマサチューセッツ、1945年7月14日。]]
マサチューセッツは8月1日に[[真珠湾]]を出港した。、10月6日、に[[マーシャル諸島]]を出撃して[[レイテ島]]上陸作戦の支援に向かい[[レイテ沖海戦]]に参加した。するも、12月17日、に[[ミンドロ島]]を侵攻支援中に台風に遭遇した。マサチューセッツは12月30日から1945年1月23日の間は[[台湾]]を攻撃、[[リンガエン湾]]上陸支援を行った第38任務部隊に所属していた。マサチューセッツはその後[[沖縄戦]]に参加した。、6月10日に[[南大東島]]にて砲撃を実施した。
マサチューセッツは1945年7月1日に[[レイテ湾]]を出航し、第3艦隊の日本本土に対する最終攻撃に合流した。[[東京]]空襲に向かう[[空母]]部隊の護衛を行った後、の7月14日に[[釜石市|釜石]]を砲撃、日本で二番目の規模の製鉄所を破壊した2週間後に[[浜松市|浜松]]を艦砲射撃、し石油コンビナートを破壊した。8月9日にも再び釜石を砲撃。し、ここでの砲撃は第二次世界大戦最後の16インチ砲の発射であるった。
==大戦後==
第二次大戦争が終わり、マサチューセッツは9月1日に[[ピュージェット・サウンド海軍工廠]]に[[オーバーホール]]のため向かった。作業が完了すると1946年1月28日にカリフォルニア沖に向けて出航、その後[[サンフランシスコ]]から[[ハンプトン・ローズ]]に向かい、4月22日に到着した。マサチューセッツは1947年3月27日に退役し、バージニア州ノーフォークの大西洋艦隊予備役艦隊入りするした。その後、1962年6月1日に除籍された。
「ビッグ・マミー ''Big Mamie''」ことマサチューセッツは1965年6月8日に、マサチューセッツ記念委員会の管理に移され、スクラップの運命から救われた。1965年8月14日にマサチューセッツ州[[フォールリバー (マサチューセッツ州)|フォール・リバー]]にある[[バトルシップ・コーヴ]]に係留され、第二次世界大戦に自らの命を捧げた人々の記念碑として現在も公開されている。
1980年代に[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権が「600隻海軍」構想の下[[アイオワ級戦艦]]4隻を再就役させた際、アメリカ海軍はマサチューセッツの設備及び部品を用いてアイオワ級を補修した。1998年にマサチューセッツはオーバーホールのためボストン湾の3番[[乾ドック]]に牽引され、翌年[[フォールリバー (マサチューセッツ州)|フォール・リバー]]に戻された。
マサチューセッツは[[第二次世界大戦]]の戦功により11個の従軍星章を受章した。
|