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'''朴烈事件'''(ぼくれつじけん、パクヨルじけん)は、[[1923年]]に[[逮捕]]された[[朝鮮民族|朝鮮人]][[アナキズム|無政府主義者]][[朴烈]]とその[[愛人]](内縁の妻)である[[日本人]]の思想家[[金子文子]]が[[皇室]][[暗殺]]を計画したという[[大逆事件]]と、その予審中の風景を「怪写真」として世間に配布させて[[野党]]の[[立憲政友会]]が[[日本国政府|政府]]批判を展開したという付随する出来事である。'''朴烈・文子事件'''とも言う。
 
実際には[[テロリズム|テロ]]は行われておらず、大逆罪に問われ有罪となったのは予審や大審院での朴子の言動や担当官吏の思惑によるところが大きい。<!--冒頭は要約であり、下記の本文を参照-->また事件は、むしろ政治利用された面が大きく、実体の伴わないものであった。
 
== 事件の概要 ==
=== 検挙と裁判 ===
[[1923年]][[9月1日]]に起きた[[関東大震災]]の2日後、[[戒厳令]]下に朝鮮人が民衆によって[[私刑]]を受けた震災後の混乱期に、朝鮮人無政府主義者・朴烈と愛人の金子文子が[[治安警察法]]に基づく「[[行政執行法|予防検束]]」の名目で[[逮捕|検挙]]され、[[東京府|東京]][[新宿警察署|淀橋警察署]]に連行された。
 
当時の[[日本の警察|警察]]・司法当局は、かねてから朝鮮民族主義と[[反日|反日運動]]を主催してきた朴が「朝鮮人暴動」を画策し、[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]を企図していたとして、朝鮮人殺害に対する国際的非難を浴びた場合の弁明や私刑に参加した[[日本人]]が[[起訴]]に至った場合の[[情状酌量]]を与える[[大義名分]]とすることで事態を収拾することを計画していた。
 
[[予備審問|予審]]を担当した[[東京地方裁判所]][[判事]][[立松懐清]]<ref>立松の次男は[[売春汚職事件]]をスクープした[[読売新聞]]記者・立松和博</ref>は、翌[[1924年]][[2月15日]]に両名を[[爆発物取締罰則]]違反で起訴したが、司法当局は[[朝鮮独立運動]]家や[[社会主義|社会主義者]]らへの威圧を目的として、起訴容疑を[[大逆罪]]に切り替えることとし、立松もこれに同意した。一方の朴も「(関東大震災がなければ1923年秋に予定されていた)[[皇太子]][[昭和天皇|裕仁親王]]の御成婚の儀の際に、[[大正天皇]]と皇太子を襲撃する予定であった」とする大逆計画を認める素振りをした。これについては、[[収監]]中の朴烈と文子が並んで予審法廷に立てられてなおかつ取調中に朴の膝に子が座って抱き合うという行為に出ても立松らが見てみぬ振りをするなど、「大逆事件を告発した司法官」としての出世を望む立松と「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を希望した朴の思惑の一致があったとする説もある。
 
朴烈は[[1925年]][[5月2日]]に、文子は同年[[5月4日]]にそれぞれ大逆罪に問われて起訴された。
 
翌[[1926年]][[3月25日]]、両者に[[死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が下され、続いて[[4月5日]]に「天皇の慈悲」と言う名目で[[恩赦]]が出され、共に[[無期懲役]]に[[減刑]]された。ところが朴烈は恩赦を拒否すると言い、文子も特赦状を[[刑務所]]長の面前で破り捨てたと言われる。
 
=== 怪写真の浮上 ===
[[Image:Park Yeol and Fumiko Kaneko.JPG|thumb|200px|問題となった怪写真]]
ところがしかし、事件はこれで終わりではなかった。[[7月29日]]になって予審中に朴と文子が抱き合っている写真(右)<ref>怪写真と共に同封された怪文書では、「上品な[[春画]]写真」という表現が登場するが、現在みてもそのような印象は受けない。しかしやや見づらいが、朴烈は文子を自分の左の膝に腰かけさせただけでなく、左手で文子の乳房を「いじくっていた」とされ、非常にリラックスしている。これはそもそも大逆罪での予審であり、(胸をまさぐっていたかどうかは別にしても)態度は極めて不忠不敬であり、けしからんというのが世論であった。</ref>が政界や報道関係に公開される。これはもともと刑死を覚悟した朴烈が母に送るために撮らせたというが、写真の存在を知った[[西田税]]が、[[第1次若槻内閣]]の転覆を計画する[[北一輝]]の意向を受けて入手・公開したものであった。これに[[世論]]は騒然とし、[[法務大臣|司法大臣]][[江木翼]]が暴漢によって汚物を投げつけられる事件も発生して、立松懐清は責任を取る形で免官された。
 
事態を重く見た[[衆議院]]では、[[野党]][[立憲政友会]]の[[森恪]]や[[小川平吉]]らが取り締まりの甘さと国体観念の薄さを材料に、若槻内閣([[与党]][[憲政会]])を追及する姿勢を見せて[[帝国議会]]は空転し、[[1927年]][[1月18日]]には[[立憲政友会]]・[[政友本党]]が[[内閣不信任決議#弾劾的上奏|内閣弾劾上奏案]]を上程した<ref>併せて[[震災手形]]の処理を巡り[[日本国政府|政府]]が特定の政商に肩入れしているという疑惑も追及された。詳細は[[昭和金融恐慌]]を参照。</ref>。
 
ところが前年の暮れ(1926年[[12月25日]])に大正天皇の[[崩御]]という事態を受け、[[国民]]が喪に服している時に政争とは如何なものかという意見が与野党から寄せられ、[[1月20日]]に[[若槻禮次郎]]([[内閣総理大臣]]・[[憲政会]])・[[田中義一]](立憲政友会)・[[床次竹次郎]](政友本党)が急遽、議会内で3党首会談を開き「政治休戦」が成立、世論もこれを支持したために北や西田の期待した倒閣の思惑は外れることになった。
 
ところがしかし裁判の中で、写真の撮影日が政友会を含む[[護憲三派]]を与党とする[[加藤高明内閣]]時の[[1925年]][[5月2日]]であり、若槻内閣に責任がないことが判明したにも関わらず、加藤高明内閣で法相を務めた小川平吉は田中内閣の鉄道相となっても憲政会<!-- 憲政党(民政党)← 参考文献の表現? -->を攻撃し続けて政争の具とした<ref>井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p44</ref>。
 
=== 判決後 ===
1926年[[7月22日]]、文子は[[栃木刑務所|宇都宮刑務所栃木支所]]で[[刑務官|看守]]の目を盗んで[[縊死]]した(つまり自殺)。文子の遺族は自殺を信用せず調査を求めたが、看守側の妨害もあって死亡の経緯は不明のままとなった。
 
恩赦を希望しない受刑者、しかも大逆罪の有罪者であり改悛の意思のない者への減刑については政府を批判する声が多く、世論も批判的であった。しかし憲法学者の[[美濃部達吉]]は政府の判断を適正であったと新聞紙面で弁護している<ref>{{Citation |和書| last = 美濃部達吉| first =達吉|author-link=美濃部達吉 | year =1930 | title =現代憲政評論 : 選挙革正論其の他| publisher =岩波書店|chapter=恩赦の意義について|pages=200-205|url={{NDLDC|1464605/112}} 国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。
 
一方は[[第二次世界大戦]]敗戦後の[[1945年]][[10月27日]]まで獄中に収容されることとなった。[[1974年]]、71歳で刑死した。
 
== 関連書籍 ==