「玉の海正洋」の版間の差分

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* 現役当時は[[ボウリング]]が大好きで、死の直前には女子プロボウラーとの婚約話も進んでいたと言われている。
* 歴史に71人存在する横綱の中で、初土俵以来一切休場を経験しておらず、現役死の寸前まで唯一通算皆勤を記録していた<ref>但し初代から3代までは史実ではない。</ref><ref>1909年6月場所以前は慣習的に幕内力士が千秋楽を休場していたため通算皆勤は事実上達成しようがなく、それ以降に入幕して横綱を掴んだ者も実際に達成に至らなかった。現役横綱の白鵬・日馬富士・鶴竜も既に現役時に休場を経験している。</ref>。しかし皮肉にも現役最後の1971年9月場所、虫垂炎の痛みをおして強行出場したことが、結果として27歳で急逝となる致命傷にも繋がってしまった。
** その玉の海の死因が性冠症候群及び右肺動脈幹血栓症であった病死を教訓に、とから、玉の海の悲劇を繰り返してはならないと当時の[[両国国技館|相撲診療所]]医師の[[林盈六]]が「力士の健康診断に血液検査は不可欠」と判断し、この当時日本相撲協会[[健康保険組合]]理事長だった[[若乃花幹士 (初代)|二子山勝治]](初代若乃花)に『力士の健康診断の項目に血液検査を導入する』ことを提案し、実現させたという<ref>『あの人は今こうしている - 林盈六さん』日刊ゲンダイ 2015年5月21日付17面</ref>。
* 現役最終場所となった1971年9月場所には、蒲郡市立西浦中学校柔道部の13年後輩である[[鳳凰倶往|鳳凰]](当時壁谷、後に関脇まで昇進)が古巣の二所ノ関部屋から初土俵を踏んでおり、皮肉にもこの場所を最後に玉の海はこの世を去っている。翌11月場所は番付からも消滅した玉の海と入れ替わるように新序ノ口となった壁谷の名前が番付に新たに掲載された。