「サンドン・ストール」の版間の差分

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サンドンは6歳の時から、父親のフレッドに[[テニス]]を習い始めた。テレビ解説者になった父親は、息子に「お前が大きくなったら、テレビでお前の試合の解説をしたいと思う」と口癖のように話していたという。サンドンは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[テキサス州]][[フォートワース]]にある[[テキサスクリスチャン大学]]で、2年間マーケティングとビジネスを専攻した後、[[1991年]]からプロテニス選手になった。[[1991年ウィンブルドン選手権|1991年ウィンブルドン]]で、サンドンは大会初出場から2回戦に進出し、センター・コートで[[ジョン・マッケンロー]]と対戦した。父親のフレッドがこの試合のテレビ解説を担当し、ストール親子はここで夢を実現させた。[[1992年]]10月、[[台湾]]・[[台北市]]開催大会のダブルスで[[ジョン・フィッツジェラルド (テニス選手)|ジョン・フィッツジェラルド]]とペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。[[1993年]]1月の「[[メディバンク国際|NSWオープン]]」男子ダブルスでは、同じ年の[[ジェイソン・ストルテンバーグ]]と組んで2勝目を挙げた。間もなく、サンドンはダブルスの分野で躍進を始める。
 
[[1994年]]にストールは男子ツアーでダブルス3勝を挙げたが、3月末に[[日本]]・[[大阪]]大会で[[マルティン・ダム]]([[チェコ]])と組んだ優勝もあった。[[1994年]]後半から[[1995年]]にかけて、彼は[[アレックス・オブライエン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])と組んで大半のトーナメントに出場した。[[1995年全米オープン (テニス)|1995年全米オープン]]で、ストールとオブライエンは初めて[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の男子ダブルス決勝に進出する。この決勝戦では「ウッディーズ」の愛称で知られる[[マーク・ウッドフォード]]&[[トッド・ウッドブリッジ]]組(ともにオーストラリア)に 3-6, 3-6 のストレートで敗れ、準優勝に終わった。ストールとオブライエンは、同年10月中旬の「[[セイコー・スーパー・テニス]]」にも出場し、準決勝で[[パトリック・マッケンロー]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])&[[ヤコブ・ラセク]]([[スイス]])組に敗れたが、このトーナメントはスポンサー撤退のため[[1995年]]の第18回大会を最後に開催中止となった。
 
[[1996年]]6月、ストールは[[イギリス]]・[[ノッティンガム]]大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、[[ヤン・シーメリンク]]([[オランダ]])に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、[[全豪オープン]]・[[全仏オープン]]・[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]は2回戦止まりだったが、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]で[[1992年ウィンブルドン選手権|1992年]]・[[1996年ウィンブルドン選手権|1996年]]・[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年]]の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。
 
[[1997年]]から[[1998年]]の2年間、ストールは大半のトーナメントで[[シリル・スーク]]([[チェコ]])とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親[[ベラ・スコバ]]は[[1962年ウィンブルドン選手権|1962年ウィンブルドン]]女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉の[[ヘレナ・スコバ]]も女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、[[1998年全米オープン (テニス)|1998年全米オープン]]の男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、[[1995年全米オープン (テニス)|1995年]]以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人は[[ダニエル・ネスター]]([[カナダ]])&[[マーク・ノールズ]]([[バハマ]])組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親[[フレッド・ストール]]は、全米選手権(当時の名称、[[1968年全米オープン (テニス)|1968年]]から「全米オープン」に変更)で[[1966年全米選手権 (テニス選手権)|1966年]]の男子シングルス優勝、[[1965年全米テニス選手権 (テニス)|1965年]]・[[1966年全米テニス選手権 (テニス)|1966年]]・[[1969年全米オープン (テニス)|1969年]]の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。
 
その後、ストールは[[1999年]]に[[ウェイン・ブラック]]([[ジンバブエ]])、[[2000年]]は[[ポール・ハーフース]]([[オランダ]])や、オーストラリアの後輩選手[[レイトン・ヒューイット]]などとペアを組んだ。[[1999年ウィンブルドン選手権|1999年ウィンブルドン]]2回戦で[[ゴラン・イワニセビッチ]]に敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。[[2000年]]はハーフースとのコンビで好成績が多く、[[2000年全仏オープンテニス|全仏オープン]]と[[2000年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]の2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。[[2001年]]3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。[[2002年]]10月、[[オーストリア]]・[[ウィーン]]大会で[[ジョシュア・イーグル]](同じオーストラリアの選手)と組み、決勝で[[チェコ]]ペアの[[イジー・ノバク]]&[[ラデク・ステパネク]]組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。[[2003年]]1月、[[2003年全豪オープン|全豪オープン]]の男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、[[2007年]]9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。
== 4大大会ダブルス成績 ==
* [[全仏オープン]] 男子ダブルス準優勝1度:2000年
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* [[全米オープン (テニス)|全米オープン]] 男子ダブルス:1勝(1998年)/同部門準優勝1度:1995年
== 外部リンク ==
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* {{Davis Cup|10001326|サンドン・ストール}}
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== 参考文献 ==
* ATPツアー発行「プレーヤーズ・ガイド」1995年版 (ツアーサイト内から、一部の伝記情報が消滅。本記事の第2段落は、この公式ガイドブックを参照した)