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[[1924年]](大正13年)、関西に出稽古に来ていた[[清元寿兵衛|三世清元梅吉]]について本格的に清元を習い始める<ref name="キネ旬"/>。[[1925年]](大正14年)、父が[[成美団]]に参加するため一家で上京して[[日本橋浜町]]の旅館に住み、[[中央区立久松小学校|久松小学校]]に入学するが、人気の落ち込んでいた父が仲間を集めて[[満州]]へ巡業に行ってしまい、旅館住まいが困難になったため、[[本郷区]]金助町の駄菓子屋の裏店に移住する<ref name="キネ旬"/><ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.141</ref>。その後、[[永田町]]に2階借りし、母と共に清元梅吉の内弟子となった。[[1927年]](昭和2年)、師匠から清元梅美智の名を貰い、母娘揃って[[名取]]となる。後、母と[[宝塚]]に移り住み、清元の師匠をやって生計を立てた<ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.142</ref>。
 
[[1930年]](昭和5年)、父が[[日活撮影所|日活太秦撮影所]]所長の[[池永浩久]]を知っていた縁で、同撮影所に月給百円という幹部女優並みの待遇で入社<ref name="ノート"/>。芸名は[[伊勢神宮]]の[[五十鈴川]]にちなんで'''山田 五十鈴'''と決まり<ref name="経済新聞"/>、同年に『剣を越えて』で[[大河内傳次郎]]の相手役としてデビューした。続いて[[池田富保]]監督のオールスター特作『[[元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻]]』に、新人としては異例の大抜擢で出演した<ref name="ノート"/>。デビュー1年目の同年だけで15本の作品に出演し、その後も[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の『続大岡政談 魔像解決篇』、[[内田吐夢]]監督の『[[仇討選手]]』、[[伊丹万作]]監督の『[[國士無双]]』『[[一年余日#映画|武道大鑑]]』、[[山中貞雄]]監督の『[[盤嶽の一生#映画|盤嶽の一生]]』など、一流の監督作品に立て続けに出演<ref name="ノート"/>。可憐なヒロイン役で人気を集め、日活時代劇のトップ女優となった。
 
===第一映画社から東宝へ===
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その間、娘の瑳峨三智子が[[東映]]に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。[[1954年]](昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚<ref name="ノート"/>。その直後に[[下元勉]]と結婚するが数年で離婚。
 
その後は女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『[[流れる#映画|流れる]]』、豊田監督の『[[猫と庄造と二人のをんな]]』、[[小津安二郎]]監督の『[[東京暮色]]』、[[黒澤明]]監督の『[[蜘蛛巣城]]』『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』、[[渋谷実]]監督の『[[悪女の季節]]』『もず』、[[市川崑]]監督の『[[ぼんち_ (小説)#映画|ぼんち]]』など、巨匠・中堅問わず幅広い作品に出演。この時期だけで[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]主演女優賞・助演女優賞をそれぞれ1回、[[毎日映画コンクール]]女優主演賞を1回、[[キネマ旬報ベスト・テン]]女優賞を2回受賞し、名実ともに映画界を代表する大女優となった。
 
===舞台・テレビでの活躍===
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{{Wikinews|訃報 山田五十鈴さん - 女優として初めて文化勲章を受章}}
[[2012年]](平成24年)[[7月9日]]、[[多臓器不全]]により[[東京都]][[稲城市]]内の病院で死去。{{没年齢|1917|2|5|2012|7|9}}。<ref name="nikkansports-1" /><ref>[http://mainichi.jp/select/news/20120710k0000m040123000c.html 山田五十鈴さん:死去95歳 映画、舞台で活躍]{{リンク切れ|date=October 2016}}、毎日新聞、2012年7月10日閲覧</ref>。戒名は「寳光院天猷妙津大姉(ほうこういんてんゆうみょうしんだいし)」(「妙」は正確には玄に少)<ref name="600人">[http://www.baily.co.jp/gossip/2012/07/12/1p_0005206739.shtml 山田五十鈴さん通夜に市村正親ら600人]{{リンク切れ|date=October 2016}}、[[デイリースポーツ]]、2012年7月12日閲覧</ref>。「宝の光」や「遥(はる)かな天を描く」「妙(たえ)なる潤い」などの意味が込められている。
 
葬儀には、生前に山田を慕っていた俳優らでつくる「養子会」のメンバーである[[市村正親]]、[[西郷輝彦]]<ref name="600人"/>、[[榎木孝明]]<ref name="600人"/>、[[萬田久子]]を始め、[[司葉子]]、[[浜木綿子]]、[[三田佳子]]、[[草笛光子]]、[[北大路欣也]]、[[平幹二朗]]、[[中条きよし]]、[[池上季実子]]、[[佐久間良子]]、[[八千草薫]]、[[朝丘雪路]]、[[富司純子]]、[[江波杏子]]、[[山本陽子]]、[[三浦布美子]]、[[石井ふく子]]、[[中村メイコ]]、[[坂東三津五郎 (10代目)|坂東三津五郎]]、[[南果歩]]、[[沢口靖子]]、など600名が参列した。
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* '''[[國士無双]]'''(1932年、[[片岡千恵蔵プロダクション]]) - お八重
* '''[[弥太郎笠]]'''(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - お雪
* [[人間飢饉#映画|闇討渡世]](1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - お静
* '''白夜の饗宴'''(1932年、片岡千恵蔵プロダクション) - お市
* [[真珠夫人#映画 (日活)|真珠夫人]](1933年、日活)
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* [[月形半平太]](1933年、日活) - 梅松
* '''[[丹下左膳]] 第一篇'''(1933年、日活) - 萩野
* '''[[一年余日#映画|武道大鑑]]'''(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - お妙
* '''[[風流活人剱#映画|風流活人剱]]'''(1934年、片岡千恵蔵プロダクション) - お京
* [[ちりめん供養]](1934年、日活) - 娘お京
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* 愛のお荷物(1955年、日活) - 貝田そめ
* [[番場の忠太郎 (映画)|番場の忠太郎]](1955年、新東宝) - お浜
* [[路傍の石# (1955年の映画)|路傍の石]](1955年、松竹) - 母れん
* [[たけくらべ (1955年の映画)|たけくらべ]](1955年、新芸術プロ) - お吉
* [[青銅の基督#映画|青銅の基督]](1955年、松竹) - 君香
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* 眠狂四郎無頼控 魔剣地獄(1958年、東宝) - 千寿院
* [[悪女の季節]](1958年、松竹) - 菅原妙子
* [[風来物語#1959年版|風来物語 仁侠篇]](1959年、[[大映]]) - 明石織枝
* 予科練物語 紺碧の空遠く(1960年、松竹) - お竹
* [[ぼんち_ (小説)#映画|ぼんち]](1960年、大映) - 喜久治の母・勢以
* 草間の半次郎 霧の中の渡り鳥(1960年、東映) - おとく
* [[夜の流れ]](1960年、東宝) - 藤村綾
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{{ブルーリボン賞助演女優賞}}
{{毎日映画コンクール女優主演賞}}
{{Normdaten}}
 
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