「マックス・レーガー」の版間の差分

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[[1902年]]、レーガー自身は[[カトリック教会|カトリック]]信徒であったにもかかわらず、[[離婚]]歴のある[[プロテスタント]]信徒の女性エルザ・フォン・ベルケン(Elsa von Bercken)と結婚し、結果的に[[カトリック教会]]から[[破門|無式破門]]に処せられた。ミュンヘン時代のレーガーは、作曲家としても、また演奏会ピアニストとしてもきわめて積極的に活動している。[[1905年]]にはミュンヘン音楽院の打診を受けて、[[ヨーゼフ・ラインベルガー]]の後任教授に就任するが、わずか1年後には保守的な同校と意見の食い違いを起こすようになっていた。
 
[[1907年]]に演奏活動で[[カールスルーエ]]に滞在中に、[[フェリックス・メンデルスゾーン音楽演劇大学|ライプツィヒ音楽院]]の教授に選任されるが、その後も演奏活動と創作活動を続け、[[1908年]]には教授職を退き、[[1911年]]から[[1914年]]の始めまで[[マイニンゲン宮廷楽団]]の[[宮廷楽長]]に就任した。1914年にマイニンゲン宮廷楽団が解散されると、[[イェーナ]]に転居。その後も精力的な作曲活動と演奏活動を続けている。[[心筋梗塞]]のために43歳の若さで急死したが、極度の[[肥満]]や暴飲暴食、[[ニコチン中毒]]に[[過労]]も死因に関わったとされている。
 
[[ライプツィヒ]]時代の門人に、[[ジョージ・セル]]、[[ヨーゼフ・ハース]]、[[ヨハンナ・ゼンフター]]がいる。