「第2軍団パルティカ」の版間の差分

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それから数十年間軍団は一部の属州で援軍のような働きをしており、[[3世紀]]の絶え間ない玉座をかけた戦いでは先兵としてあり続けた。[[ガッリエヌス]]は軍団に対して「クィンキエス・フィレリス・クィンキエス・ピア(V Fidelis V Pia-『五たび忠実で五たび誠実な軍団』の意)」と「セクシエス・フィデリス・セクシエス・ピア(VI Fidelis VI Pia - 『六たび忠実で六たび誠実な軍団』の意)の称号を授けられている。
 
この称号が授けられた時、軍団はどこに駐在していたのかはわかってはいない。<!-- ここから訳が怪しいです -->考えうる他の条件が同じだとすると、[[ウァレリアヌス]]と息子であり共同統治者の[[ガッリエヌス]]は[[250年代]]末にはこの軍団を東に連れて行く考えだったのかもしれない。もしそうなら軍団は[[シャープール1世]]によって敗北、ウァレリヌスとともに捕囚の憂き目に巻き込まれていただろう。しかし[[マクリアヌス]]の反乱や[[ゼノビア]]の[[パルミア]]の半独立勢力など、引き込まれるであろう次々と迫る危険を第2軍団が回避できたという事、またはガッリエヌスから敬意ある継承を贈られたという事から察すると、軍団は父親のウァレリアヌスではなく、ガッリエヌスの指揮下にあったものと考えられる。しかしながら、可能性は低いものの、叛乱者マクリアヌスの指揮下にあって敗北、ガッリエヌスによって赦され帝国内に戻っていた可能性も否定できない。[[マケドニア]]には[[ユピテル神]]の感謝を捧げ、そして[[ゴルディアヌス]]の「安全と健康(pro salute et incolumitate)」を祈る碑文が残されており、また[[ローマ]]には碑銘によれば、[[242年]]の記録で軍団の「才あるゴルディアナと[[フォルトゥ]]」に感謝を捧げ、ゴルディアヌスとその妻の安全を祈る碑文が残されているが、軍団の動向についてはほとんど何もわかってはいない。