「バンザイ突撃」の版間の差分

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== 戦術的意義 ==
[[島嶼]]部での戦いでは、長期の包囲により備蓄した[[食品|食糧]][[弾薬]]が不足し、[[輸送艦|輸送船]]も沈められ[[補給]]が望めない[[日本軍]]によって行われたが、[[自動火器]]や[[大砲|火砲]]の充実した[[アメリカ軍]]に対し、[[武器]]弾薬の欠乏した日本軍による[[突撃]]によって勝利した事例は無い。これに対し、[[アッツ島の戦い]]や[[タラワの戦い]]・[[ビアク島の戦い]]・[[ペリリューの戦い]]・[[硫黄島の戦い]]・[[沖縄戦]]などではこうした自殺的突撃が戒められ、防御線を敷いた持久型の[[縦深防御]][[戦術]]が採られた。[[ペリリュー島]]で戦った[[アメリカ海兵隊|海兵隊員]][[ユージーン・スレッジ]]は、自著<ref>ユージン・スレッジ著「ペリリュー・沖縄戦記」</ref>の中で、バンザイ突撃が始まり、これを撃退すれば早々に決着がつくので、むしろ行われるのを待ち望んでいた<ref>他の資料にも「自殺的な万歳突撃は、士気喪失した敵を粉砕し意志の力だけで優越する火力に打ち勝つことを意図したものであったが、終わりを早めることに役立ち、実際攻略部隊を喜ばせただけだった。」(ゴードン・L・ロトマン著「太平洋戦争の日本軍防御陣地 1941-1955」 P61 大日本絵画)とある</ref>が、実際は縦深防御によって[[戦闘]]が予想以上に長引き、海兵隊は多数の死傷者を出したと述べている。[[日本軍]]がバンザイ突撃を実行したのは二ヶ月以上後、武器弾薬が尽き[[玉砕]]を決意してからのことであった<ref>この資料でも、日本軍による通常の[[白兵戦|白兵突撃]]を、最終的に行われる「バンザイ突撃」とは区別して描写している</ref>。こうした戦術は[[アメリカ軍]]側の損害を増やし、バンザイ突撃の戦術的評価が低かったのとは対称的に、「日本軍の兵士は極めて勇敢、精強であった」という評価につながった。
 
== 米陸軍第442連隊戦闘団における「バンザイ突撃」 ==