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ダキア人という呼び名は、[[バナト]]地方および[[トランシルバニア]]地方に居住していた人々に対するもので、[[ムンテニア]]地方および[[ドブロジャ]]地方の居住者はゲタエ人、[[モルドバ]]地方の居住者はカルピ人と呼ばれた。
 
[[ヘロドトス]]の『歴史』(第4巻)には、[[スキティアタイ]]に関する記述が見られる。スキティア人タイは、インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話していた民族で、紀元前1世紀には、現在の[[黒海]]北部を中心に力を振るっていた。その中で「スキティアタイ王族」と呼ばれる一派が、紀元前800年頃に黒海北西部および西部に定住した。東[[カルパチア山脈]]西部には、スキティア人タイと言語的に相関性のある一部族が住んだ。ヘロドトスはまた、ゲタエ人にも言及しており(「ゲタイ」の名で登場している)、ドナウ南部に居住するトラキア系の一部族で、紀元前500年頃に[[アケメネス朝]]ペルシアの[[ダレイオス1世]]に敗れ、紀元前350年以降には[[マケドニア王国|マケドニア]]の軍事的圧力下でドナウ北部に移住し、そこで原住民と混ざり一つの民族を形成するに至った、としている。この頃から、ドナウ北部に居住する民族を、古代ローマ人は「ダキア・ゲタエ人」と呼び、古代ギリシア人は「ゲタエ・ダキア人」と呼ぶようになった。
[[ファイル:Roman_provinces_of_Illyricum,_Macedonia,_Dacia,_Moesia,_Pannonia_and_Thracia.jpg|right|250px|thumb|'''ローマ帝国ダキア州成立以前のダキア周辺状況'''(紀元後100年ごろ) [[ドナウ川]](桃色と黄色の二重線)の北がダキア、ドナウ川の南西には[[ドミティアヌス]]が置いた上モエシア州 (MŒSIA SUPERIOR)、南東には同じく下モエシア州 (MŒSIA INFERIOR) の名前が見える。''Alexander G. Findlay's Classical Atlas to Illustrate Ancient Geography'', New York, 1849による]]
紀元前2世紀になると、サルマタエ人の一派である[[ロクソラニ族]]や[[ヤジグ族]]が、東方の他部族の侵入から逃れてドナウ沿岸地域に移住してきた。サルマタエ人は、黒海北東部を起源とするスキティア人タイの一派である。ヤジグ族は古代ローマでは「ヤシ(Iasi)」、[[プトレマイオス朝]][[エジプト]]では「ヤシウス(Jassius)」と呼ばれていた部族で、ダキア北東部に居住していたが、紀元後20年以降カルパチア山脈を越え、ティサ川とドナウ川の間に広がる[[パンノニア平原]]に到達したとされる。現在の[[ハンガリー]]にあるダルヴァール(Daruvár)では、''municipium Iasorum'' および ''res publica Iasorum'' という言葉が刻まれた碑文が発見されている。その他ルーマニアの[[グラディシュテ]](Grădişte)などで発見された古代ローマ時代の碑文から、このヤシ族(ヤジグ族)が現在のモルドバおよびトランシルバニア地方で勢力を持っていたことが判っている。当時サルマタエ人とゲタエ・ダキア人が混同されていたことは明らかで、ダキアが[[古代ローマ帝国]]属州となってから置かれた首都(ウルピア・トラヤーナ)サルミゼゲトゥサ・レジア(Ulpia Traiana Sarmizegetusa Regia)は、恐らく[[ラテン語]]の「Sarmis-et-Getus-a-Regia」、つまり「サルマタエ人とゲタエ人の都」という言葉に由来していると考えられる。しかし、「[[サルミゼゲトゥサ]]」は「丘に囲まれた町」を意味する[[ダキア語]]に由来する、という説もあり、どちらが正しいか判断するには、今後のダキア語研究の成果を待つしかない。
 
== 歴史 ==