「中国学」の版間の差分

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一部の例外はあるものの、大勢において植民地支配・戦争体制に協力することで発展してきた近代日本の中国学は、1945年の敗戦と日本帝国の解体により大きな打撃を受けた。特に国策研究としてさまざまな援助を受けてきた現状分析的な中国研究は、敗戦後、それまで蓄積してきた資料を占領軍・[[ソビエト連邦|ソ連]]軍などにより没収された。また戦後の一時期、それまで深い政治的・経済的関係を持っていた中国との交流を断たれたことから、中国さらに中国研究への社会的関心は低下した。また現状分析的研究と比べ時局的要請との関わりがやや薄かった古典学的「支那学」も一時衰退をよぎなくされ、京大シナ学を中心とする雑誌『支那學』は休刊となり、支那学会も休眠状態に陥った。
 
このような状態でいち早く活動を始めたのは主として戦時期に満鉄調査部や東亜研究所などのシンクタンクに属していた、左派的・マルクス主義的傾向をもつ研究者たちであった。平野義太郎・中西功・[[岩村三千夫]]らは[[1946年]]、[[中国研究所]](中研)を設立し、現代中国の研究をおこなった。古典学の方面でも[[1947年]]に[[東方学会]]、[[1948年]]に[[日本中国学会]]が設立された。ただし、これらの学会では主として中国の思想・文学を研究する人々が結集しており、一方、中国史の研究者たちは戦前以来の[[東洋史研究会]]・[[歴史学研究会]]など歴史系学会を拠点として活動し、「世界史」的観点からする「時代区分論争」など活発な議論を戦わせた。[[1950年代]]以降、日本とアジア諸国との関係が復活してくると、アジア地域の現状に対する関心も高まり、現代中国研究の団体・機関としては、先述の中研に加え、[[1951年]]には中研を母体とする現代中国学会(現、[[日本現代中国学会]])、[[1953年]]には戦後導入されたアメリカ流の地域研究の影響を受け[[アジア政経学会]]が発足した。そして[[岸内閣]]のアジア重視外交を背景に、最大のアジア地域研究機関である[[アジア経済研究所]]が[[1958年]]に発足し、この中で中国研究は大きな位置を占めることになった。
 
戦後日本の中国学の特徴としては、一つには近現代の文化に対する研究が盛んになったことが挙げられる。そのため、それまで研究者が比較的明確に別れていた古典学と現状分析の2領域の境界が次第に不分明になり、両者が協力して研究プロジェクトを進める機会も多くなっている。次いで、中国に[[社会主義]]政権が誕生した影響により、マルクス社会科学の影響が強くなった点も特徴である。しかしこのことは特定の政治的価値観に基づく研究が増えるという結果ももたらし、例えば[[中華人民共和国|新中国]]における[[文化大革命]]の評価を巡り中国学者・中国研究者たちが二分され不毛な対立を繰り返すというような事態も生んでいる。