「大麻唯男」の版間の差分

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|画像説明 = 大麻唯男の肖像写真
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1889{{生]][[77]]と年齢|1889|7|7|死亡}}
|出生地 = [[東京府]](出身地は[[熊本県]][[玉名市]])
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1889|7|7|1957|2|20}}
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|就任日3 = [[1952年]][[10月2日]]
|退任日3 = [[1957年]][[2月20日]]
|退任理由3 = 在職のまま死
|元首職3 =
|元首3 =
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[[熊本県立熊本高等学校|熊本中学]]、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]、[[1914年]]([[大正]]3年)[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科]]を卒業後、[[内務省 (日本)|内務省]]に入省。[[日本の警察|警察]]畑を歩み、[[山形県警察部|山形]]・[[山梨県警察部|山梨]]・[[神奈川県警察部|神奈川]]各県の[[警察署長]]を務めた。
 
[[1924年]](大正13年)、同郷の[[小橋一太]](元[[文部大臣 (日本)|文部大臣]])の推挙により、[[清浦奎吾]]首相秘書官を務める。[[徳川家広]]によると、[[細川護立]]の宴会に出席した大麻のスピーチの巧さが清浦の目に止まったのが秘書官になったきっかけという<ref>[http://dot.asahi.com/wa/2014013100034.html 徳川家末裔が明かす細川家と小泉家の奇妙な縁 (更新 2014/:2014年2/ 3 11:30) 粉)] - 『[[週刊朝日]]』[[2014年]]2月7日号</ref>。同年[[政友本党]]から[[第15回衆議院議員総選挙]]に立候補し当選。以後当選10回。[[立憲民政党]]に合流後、司法・文部各参与官、党筆頭総務を歴任し、[[1934年]](昭和9年)1月から[[1935年]](昭和10年)1月までの間は民政党の幹事長を務めた<ref>『昭和の政党』、419頁。</ref>。民政党では3代目総裁となった[[町田忠治]]に可愛がられたが、[[1940年]](昭和15年)の政党解消に対しては町田が民政党の解党に最後まで抵抗したのに対し、大麻は裏で軍部と手を握って新体制運動に民政党を合流させた。このことから'''政界の寝業師'''の異名が大麻に付けられた。
 
政党解消により[[大政翼賛会]]が発足すると、議会局議事部長に就任し、同議会局長の[[前田米蔵]]を補佐した。また院内では[[翼賛議員同盟]]に所属し、[[1942年]](昭和17年)[[翼賛政治体制協議会]]委員となり、翼賛選挙の推薦候補選考に関わる。自らも[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]で翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。同年、[[翼賛政治会]]常任顧問に就任。翼賛政治体制協議会の活動から翼賛政治会の設立に至るまで中心的な役割を果たした<ref>『昭和の政党』、383頁。</ref>。[[1943年]](昭和18年)には[[東條内閣]]の[[国務大臣]]として初入閣を果たす<ref>『昭和の政党』、386頁。</ref>。「[[東條英機|東條]]の茶坊主」と呼ばれ、翼賛体制の枢要を担ってきた親軍派政治家としてその名が知られるようになった。
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[[Category:熊本大学出身の人物]]
[[Category:勲一等旭日大綬章受章者]]
[[Category:公職追放者]]