「歌川豊広」の版間の差分

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[[歌川豊春]]の門人。姓岡島、俗称藤三郎<ref>『[[浮世絵類考]]』における[[式亭三馬]]の補記では「勝次郎」、『増補浮世絵類考』での[[斎藤月岑]]の記述では「藤次郎」となっており、以後諸書の記述では「藤次郎」が踏襲されていく。しかし、江戸期の雅俗の文人墨客の手紙を集めた、「尺璧帖」(東京国立博物館蔵)内にある豊広自筆と思われる書状では、「藤三郎」と署名しており、こちらが正しいと推測される。「藤次郎」あるいは「勝次郎」の表記は伝写の過程で、藤三郎→藤二郎→藤次郎→勝次郎、というふうに誤写されていったからであろう(大久保〈1995〉pp21-23)。</ref>。一柳斎と号す。江戸の人で[[芝 (東京都港区)|芝]]片門前町に住んでいた。
 
豊春に入門し一柳斎と称して[[天明]]8年([[1788年]])頃から[[絵暦]]の作画を始める。前年秋、中村座の狂言と考証される二世小佐川常世のおさんと三世沢村宗十郎の茂兵衛を描いた細判[[錦絵]]がある。<ref>『浮世絵師伝』</ref>ともいわれる。ただし、その後、寛政の末までの間の作品の有無に関しては未詳。初代[[歌川豊国]]とは同門であったが、豊広の作品は豊国より地味で、それが[[美人画]]や[[風景画]]にも現れている。豊春門下では豊国に次ぐ実力者であったが、版本の挿絵が活動の主体で、寛政12年([[1800年]])頃から、文化7年([[1810年]])の頃にかけては主に敵討物の[[黄表紙]]や[[合巻]]、[[噺本]]の挿絵を多く手がけており、[[山東京伝]]や[[曲亭馬琴]]、[[十舎一九]]らの作品に携わっている。豊国のように[[役者絵]]に没頭しなかったので、門人に初代[[歌川広重]]の様な風景画家が輩出することとなった。広重の師として若干の[[風景画]]も残している。豊国と比較すると作品数は極めて少ないが、[[寛政]]([[1789年]] - [[1801年]])末年から[[文化 (元号)|文化]]([[1804年]] - [[1818年]])期に描いた美人画には、清楚でどこか弱々しく淋しげな表情が見られ、すらりとした柳腰の独特な趣がある。縦二枚続は豊広の創案と考えられる。また、肉筆美人画には叙情性の豊かな優れたものが数多く見られる。文化3年([[1806年]])から[[文政]]10年([[1827年]])頃まで、曲亭馬琴に認められてその読本に数多くの挿絵を描いた。錦絵の代表作として、「豊国豊広両画十二候」や「江戸八景」などがあげられる。享年56。墓所は港区虎ノ門の専光寺。法名は釈顕秀信士。
 
豊広の門人には「東海道五十三次」の作者として著名な[[歌川広重]]のほか、息子の[[歌川豊清]]、[[歌川広近]]、[[歌川広演]]、[[歌川広兼]]、[[鳥羽広丸]]、[[歌川広恒]]、歌川広昌、歌川広政、[[歌川直広]]、[[歌川豊熊]]、[[歌川芳広]]らがいた。歌川広昌は沼津で旅人宿「太平屋」を営み、[[文化 (元号) |文化]]のころ活躍している。また歌川広政と同一人ともいわれる。