「日本学生支援機構」の版間の差分

大日本育英会は成績優秀だが貧しく修学が困難な学生に奨学金を貸与することを目的としていた。当時、大蔵官僚で元首相の[[大平正芳]]は大日本育英会の査定を担当していて、大平は国の手による育英事業は本当の英才に限られるべきとの考えから、当初の中学20万人案はいうに及ばす、文部省の3万人案よりも少なく査定した。さすがに厳し過ぎることから大蔵省首脳からも批判され、最終的には主計局長の[[植木庚子郎]](後に衆議院議員)に説得されて譲歩したという<ref>{{Cite book|和書|author=福永文夫|authorlink=福永文夫|title=大平正芳:「戦後保守」とは何か|origdate=2008-12-20|accessdate=2009-04-15|edition=初版|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=9784121019769|pages=p. 44}}</ref>。
 
この目的は制度の変更はあったものの[[1999年]]に'''きぼう21プラン'''が導入されるまで貫かれた。初期の大日本育英会の事業は技術立国日本を支える技術者養成の観点から'''理系の学部学生・大学院生'''が奨学金対象になっていた。
 
[[1953年]][[8月13日]]、日本育英会に名称を変更する。
 
[[1984年]][[8月7日]]、日本育英会設置の根拠法日本育英会法が全面的に改正され、施行される。ただし、適用は同年[[4月1日]]からの[[法の遡及適用]]適用であった。この改正で無利子貸与の第一種奨学金と有利子貸与の第二種奨学金に分かれることになる(従来は全て無利子貸与であった)。第二種奨学金導入により従来より貸与される学生の範囲が幾分拡大した。
 
従来は、教職に就職し5年以上就業すると、奨学金の返済が免除される「'''教職返還免除制度'''」が有ったが、内閣総理大臣[[橋本龍太郎]]時に行った「行政改革」によって、この制度が廃止された。
 
[[2000年]]4月1日、第二種奨学金を改定する形できぼう21プランが導入された。これにより事実上奨学金を希望すれば貸与を受けられるようになった。ただし、後年[[財政]]や[[債権管理]]の問題から、制度は幾分縮小された。