「甲斐親直」の版間の差分

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阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた宗運は、主家を裏切ろうとする者、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清した。それは息子とて例外ではなく、[[日向国]]の[[伊東義祐]]への接近を試みた二男[[甲斐親正|親正]]、三男[[甲斐宣成|宣成]]を誅殺し、四男[[甲斐直武|直武]]を追放した。これに反発して親英が宗運の暗殺をもくろんだが、露見。本来はこれも誅殺すべきであるが、嫡男であったので、家臣たちの嘆願により思いとどまった。戦国の世とはいえ、我が子を一度に4人も殺害しようというのはきわめて苛烈な処断といえた。
 
親英の妻は大いに恐れ、「舅は必ず夫を成敗する」と考え、娘(木山備後守惟久室)に命じて宗運の毒殺を実行させたという。彼女は阿蘇氏家臣・黒仁田親定の娘であったが、親定はかつて[[伊東氏]]に内通し、宗運によって暗殺されていた。親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して怨まず、また宗運に復讐を企てない」旨を神の名にかけて誓約をさせていたという。そのため、親英の妻が娘の手を借りたのは、孫娘ほうが宗運の油断を招きやすさせ易いだけでなく、かつての誓約の文言に反しないようにするためであったというのである
 
== 脚注 ==