「三波伸介 (初代)」の版間の差分

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=== 「笑点」で司会者へ ===
[[1970年]][[12月20日]]に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[笑点]]」の3代目司会者に就任。そのきっかけは、同年[[2月8日]]にてんぷくトリオとしてゲスト出演した札幌の地方収録の回で、飛行機の欠航により出演できなかった[[前田武彦]]の代役として司会を務めたこと。当時はまだ司会経験が浅かったものの、元々[[落語]]に造詣が深かったこともあり、並み居る[[落語家]]達を相手に[[大喜利 (笑点)|大喜利]]を取り仕切った。<ref name="minami1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』109ページ</ref>大喜利では、談志時代のナンセンスなブラックユーモアを主体にした掛け合いから落語家の丁々発止による掛け合いに代表されるような、分かり易いドタバタ路線に変えた。番組自体の人気を上げたことはもちろん、自身がピン芸人としてブレイクするキッカケとなった。
 
[[1973年]][[4月20日]]に戸塚が42歳の若さで死去。残った伊東と2人で「てんぷく集団」と改名し活動を続けた。
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*三波の出身大学の後輩にあたる[[爆笑問題]]の[[太田光]]は、三波の大ファンであり、彼に弟子入りしたかったと何度か番組内にて、公言していた。
*自称「阿佐谷のセザンヌ」でテレビ番組「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」の似顔絵や「三波伸介の凸凹大学校」で披露するイラストなど素人ながら絵画の実力は高く[[水彩画]]を得意とし[[浅田飴]]の広告などに寄稿していた。後年に遺稿集「三波伸介画・書集 夢の途中」が刊行されている。
 
=== 笑点時代でのエピソード ===
*『[[笑点]]』司会者当時、レギュラー出演者の[[桂歌丸]]と[[三遊亭小圓遊#4代目|三遊亭小圓遊]]の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]が立会人となり、[[1972年]][[8月27日]]の放送の中で実際に行われた。
* 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。豪快な外見とは裏腹に、繊細で研究熱心であり、流れをシミュレーションして収録に臨んだ。特にこだわったのは、家族で楽しめる笑いであり、歌丸と小圓遊の罵り合いや林家木久蔵(現・木久扇)の「いやんばか~ん」、林家こん平の「チャラーン!」などの定番ネタは、三波のリードで名物になったものである。中でも座布団運びの松崎真を紹介する時の「陸に上がったトドの死体」「牛のよだれ」といったフレーズは語り草になっている。<ref name="minami1"/>
* 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。
* 現在のように司会者がオープニングで客席に座って挨拶するスタイルを最初に取り入れたのは三波である。「『笑点』の顔として、お客様の中に入り一体感を持ちたい」との考えから始めたと言われる。なお、三波の司会当時は近くに座る観客にインタビューすることも多く、観客とのやり取りが番組の名物の一つとなっていた。
* [[飛行機]]が苦手で、普段は飛行機での移動を極力避けていたが、地方収録でやむを得ず飛行機を利用した際には、恐怖のあまり隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗したときには「飛行機が揺れるたびに僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
* [[生もの]]が苦手で、[[香川県|香川]]ロケで当地で一番といわれる[[料亭]]に招待された際には、出された[[白魚]]や[[刺身]]を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。
* 人気絶頂期の[[1982年]][[12月]]に急死したため、翌年のいくつもの正月番組(録画)で「この番組は○月○日に収録したものです」とのテロップが流れた。ただし、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の「[[番組対抗かくし芸大会]]」には笑点チームで参加予定で亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。皮肉にもその演し物は『カルメン』であり、心臓を押さえながら最期を迎える役を演じていた。<ref name="minami1"/>
 
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