「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

m
Bot: [​[名神大社|名神大社]​] → [​[名神大社]​] ,Removed linktext ∵Check Wikipedia #64
m (Bot: <br style="clear: both"/> → {{clear}} ∵Tag with incorrect/obsolete syntax: Check Wikipedia #2)
m (Bot: [​[名神大社|名神大社]​] → [​[名神大社]​] ,Removed linktext ∵Check Wikipedia #64)
[[六国史]]によれば[[斉衡]]3年([[856年]])から[[貞観 (日本)|貞観]]12年([[870年]])の間に出羽国では[[定額寺]]が6ヶ所指定され、また『日本三代実録』[[仁和]]元年([[885年]])11月21日の条では飽海郡に[[神宮寺]]があったと記していることから、出羽における[[神仏習合]]はこの時期に始まったと『名勝鳥海山』<ref name="choukai" />では推測している。また同書によれば、大物忌神へ奉仕する職制は[[神仏習合]]以来変化し、従来の唯一神道を以って奉仕する[[社家]]、神宮寺の仏式を以って奉仕する社僧に別れたが、その後の仏教隆盛に従い社家は段々と衰退して行き、中世には[[本地垂迹|本地垂迹説]]により'''鳥海山[[権現|大権現]]'''と称して社僧が奉仕をしていたのだと言う。これが後の[[明治]]の[[神仏分離]]によって、大物忌神社に復すまで続くことになる。
 
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には『[[延喜式神名帳]]』により式内社、[[名神大社|名神大社]]とされた。また、『[[延喜式]]』の「主税式」においても祭祀料2,000束を国家から受けている。『延喜主税式』によれば、当時国家の正税から祭祀料を受けていたのは[[陸奥国]][[鹽竈神社|鹽竈社]]、[[伊豆国]][[三嶋大社|三島社]]、[[淡路国]][[大和大国魂神社|大和大国魂社]]と他に3社しかないことから、大物忌神社が国家から特別の扱いを受けていたことが覗える。大物忌神は、六国史にも、13度登場している<ref name="tetsugaku" />。なお、当時は「鳥海山」という山名がなかったため、「飽海郡鎮座の大物忌神」と呼ばれていた<ref name="tetsugaku" />。
 
=== 中世 ===
125,305

回編集