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[[カールスルーエ]]で4人兄弟の末っ子として生まれた。父親のカール・ラッツェルは、宮廷の近侍であった。ラッツェル家は身分的にも保護され、彼も何の不自由もなく育った。彼は放課後、[[薬剤師]]としての訓練を積むようになり、[[1863年]]に薬学試験を受けたあと、数年薬剤師の助手として働く。次第に、彼の学問的関心が[[自然科学]]と[[文献学]]研究へと向き始めた。21歳の時までに、[[地質学]]、[[動物学]]を[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]、[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]で学ぶ。[[1868年]]にハイデルベルク大学より動物学の[[博士号]]を授与された。
 
卒業後、南[[フランス]]へと旅行したが、金銭不足に陥り、それを補うために[[ケルン]]新聞(あるいは年報)([[:de:Kölnische Zeitung|de]])宛てに『[[地中海]]の旅行手記』を投稿した。これは読者から好意的に受け入れられ、彼はケルン新聞の調査報告者として雇われ継続的に旅行報告をしていくことになった。彼はさらに[[イタリア]]、[[キューバ]]、[[メキシコ]]、[[ハンガリー]]、[[アメリカ合衆国]]へと調査旅行を行った。この間[[普仏戦争]]に従軍し、負傷している<ref name="cs"/>。この後にモリッツ・ワーグナー([[:en:Moritz Wagner|Moritz Wagner]])と出会い、[[生物]]の新種は[[地理的隔離]]によって生じるという考えに大きな影響を受けた<ref name="cs"/>。
 
1871年、[[ミュンヘン工科大学]]に入学し、[[自然科学]]研究を継続する。ここで彼にとって地理学が、ますます大きな意義を持つようになっていた。1875年にラッツェルの調査旅行は終わり、ミュンヘン工科大学の地理学の私講師としての時代が始まる。その1年後には員外教授に就任。ミュンヘンでの活動中に『一般地理学に関する平易な24回の講義』(1881)、『アメリカ合衆国』(1878-1880, 2巻)を出版。これらの作品は、彼の「[[人類地理学]]」の始まりでもあった。