「真田信政」の版間の差分
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長男[[真田信就|信就]]を故あって相続対象から外したが([[旗本寄合席|寄合]]として別家を立てる。のち七男の[[真田信弘|信弘]]が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の[[正保]]2年([[1645年]])、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の六男[[真田幸道|右衛門(幸道)]]を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、支藩で幸道従兄の[[沼田藩]]主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門の相続と決定した。
{{信濃真田氏当主}}
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