「壬生綱房」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
m Bot: [​[宇都宮広綱|宇都宮広綱]​] → [​[宇都宮広綱]​] ,Removed linktext ∵Check Wikipedia #64
45行目:
天文18年([[1549年]])[[喜連川五月女坂の戦い]]で主君・[[宇都宮尚綱]]が戦死すると混乱に乗じて[[宇都宮城]]を占拠した。綱房は[[那須氏]]と和議し芳賀高経の子・[[芳賀高照]]を宇都宮城に招いて共同政治体制をしいた。しかし、実質的な支配者は綱房であり、高照は不安を抱いていたという。
 
綱房は壬生城に嫡男・綱雄を置き、今まで居城だった[[鹿沼城]]に弟の[[壬生周長|壬生徳雪斎]]を置き、領内各地の城主らには本領安堵を約している。こうして周辺の守りを固め、敵対しているのは尚綱の子・伊勢寿丸(後の[[宇都宮広綱|宇都宮広綱]])を保護している[[芳賀高定]]のみとなった。
 
天文20年([[1551年]])、反乱の起きた結城氏のために古河公方から援軍を要請された時には、嫡男・綱雄を総大将に3000もの兵で出陣させ大勝利する。この戦果によって周辺国に壬生氏の勢いを見せつけた。