「ユーゴスラビア」の版間の差分

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{{Main|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国}}
[[ファイル:Flag of SFR Yugoslavia.svg|thumb|left|200px|[[ユーゴスラビアの国旗|ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の国旗]]]]
大戦中の[[1943年]]に成立した'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア民主連邦]]'''は社会主義を標榜し、新たな国家体制の構築に奔走した。戦後、自力でユーゴスラビアの解放に成功したチトーは王の帰国を拒否し、ロンドンの亡命政権を否認、'''[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]'''の成立を宣言した。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党([[1952年]]に[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]と改称)は、[[1948年]]にチトーが[[ヨシフ・スターリン]]と対立して[[コミンフォルム]]を追放されて以降、ソ連の支配から外れ、独自の路線を歩むことになる。ユーゴスラビアは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が戦後のヨーロッパ再建とソ連への対抗策として打ち出した[[マーシャル・プラン]]を受け入れる姿勢を取り<ref>W. A. Brown & R. Opie, ''American Foreign Assistance, 1953''</ref>、東ヨーロッパ諸国を[[衛星国]]として取り込もうとしていたソ連と対立した。ソ連と対立したため、東ヨーロッパの軍事同盟である[[ワルシャワ条約機構]]に加盟せず、[[1953年]]には[[ギリシャ]]や[[トルコ]]との間で[[集団的自衛権]]を明記した軍事協定{{仮リンク|バルカン三国同盟|en|Balkan Pact (1953)}}を結んで[[北大西洋条約機構]]と事実上間接的な同盟国となる。[[社会主義国]]でありながら1950年代は米国の{{仮リンク|相互防衛援助法|en|Mutual Defense Assistance Act}}の対象となって[[M47パットン]]、[[M4中戦車]]、[[M36ジャクソン]]、[[M18 (駆逐戦車)|M18駆逐戦車]]、[[M3軽戦車]]、[[M8装甲車]]、[[M3装甲車]]、[[M7自走砲]]、[[M32 戦車回収車]]、[[M25戦車運搬車]]、[[GMC CCKW]]、[[M3ハーフトラック]]、[[M4トラクター]]、[[デ・ハビランド モスキート]]、[[P-47]]、[[F-86]]、[[F-84]]、[[T-33 (航空機)|T-33]]、[[M36ジャクソン]]、[[M18 (駆逐戦車)|M18駆逐戦車]]など大量の西側の兵器を米英から供与され<ref>[http://web.inter.nl.net/users/spoelstra/g104/yu.htm Sherman Register - Yugoslavia]</ref><ref>[https://acesflyinghigh.wordpress.com/2016/01/16/yugoslav-air-force-combat-aircraft-1953-to-1979-the-jet-age-i-us-soviet-aircraft/ Sherman Register - Yugoslavia]</ref><ref>[ Yugoslav Air Force Combat Aircraft: 1953 to 1979 – The Jet Age I (US & Soviet Aircraft)]</ref>、1960年代からは[[スターリン批判]]で[[ニキータ・フルシチョフ]]がソ連の指導者になったことからソ連と和解して東側の軍事支援も得た。その中立的な立場から[[国際連合緊急軍]]<ref>[http://www.unmultimedia.org/s/photo/detail/147/0147113.html United Nations Photo: Yugoslav General Visits UN Emergency Force]</ref>など[[国際連合平和維持活動]]にも積極的に参加し、[[冷戦]]下における安全保障策として[[非同盟運動]](Non-Alignment Movement, NAM)を始めるなど独自の路線を打ち出した。その一方、ソ連から侵攻されることを念頭に置いて兵器の国産化に力を入れ、[[特殊潜航艇]] なども開発した。ユーゴスラビア連邦軍とは別個に地域防衛軍を配置し、武器も配備した。地域防衛軍や武器は、後の[[ユーゴスラビア紛争]]で利用され、武力衝突が拡大する原因となった。
 
[[社会主義]]建設において、ソ連との違いを打ち出す必要に迫られた結果生み出されたのが、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とも言うべき[[自主管理社会主義]]である。これは生産手段をソ連流の国有にするのではなく、社会有にし、経済面の分権化を促し、各企業の労働者によって経営面での決定が行われるシステムだった。このため、ユーゴスラビアでは各企業の[[労働組合]]によって社長の求人が行われる、他のシステムとは全く逆の現象が起こった。この自主管理社会主義は、必然的に[[市場]]を必要とした。そのため、地域間の経済格差を拡大させ、これが後にユーゴスラビア紛争の原因の一つとなった。加えて、[[市場経済]]の完全な導入には踏み切れなかったため、不完全な形での市場の発達が経済成長に悪影響を及ぼす矛盾も内包していた。