「マールバラ (戦艦)」の版間の差分

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=== ロマノフ家の救出 ===
[[1917年]]に[[ロシア革命|ロシアで革命が発生]]すると、マールバラは同盟[[連合_(第一次世界大戦)|連合国]]を代表して[[黒海]]方面へ派遣された。[[1918年]]11月に[[ドイツ帝国|ドイツ]]が降伏すると、マールバラは[[ジョン・デ・ローベック]][[海軍大将|提督]]の指揮下、旧[[ロシア帝国]]領に進駐するイギリス艦隊の1艦として[[ウクライナ]]に向かった。
 
[[1919年]]には[[ジョージ5世_(イギリス王)|ジョージ5世]]の命により、[[クリミア半島]]の避暑地[[ヤルタ]]に幽閉されていた彼の叔母である[[マリア・フョードロヴナ_(アレクサンドル3世皇后)|マリヤ・フョードロヴナ皇太后]]と[[ロマノフ家|その家族]]を救うため、マールバラは[[4月4日]]、[[連合国_(第一次世界大戦)|連合国]]の占領下にあった[[オスマン帝国]]の[[イスタンブール|イスタンブール]]を発し、一路[[セヴァストポリ|セヴァストーポリ]]方面へ向かった。[[4月7日]]、彼女らが監禁されていた[[クリミア半島]]の避暑地[[ヤルタ]]に到達したマールバラは、ロマノフ一家の救出を速やかに実行した。当時、旧[[ロシア帝国海軍|ロシア帝国艦隊]]の主力は連合国軍の管理下に置かれており、残る艦船も連合国と同盟関係にある[[白軍]]が掌握していて、敵方となる[[赤軍|ソビエト軍]]にはマールバラに対抗できるような海上戦力はなかった。
 
[[4月7日]]、ヤルタに到達したマールバラは、ロマノフ一家の救出を速やかに実行した。当時、旧[[ロシア帝国海軍]]の主力は連合国軍の管理下に置かれており、残る艦船も連合国と同盟関係にある[[白軍]]が掌握していて、敵方となる[[赤軍|ソビエト軍]]にはマールバラに対抗できるような海上戦力はなかった。
不幸にして皇帝一家は[[1918年|前年]]に[[イパチェフ館|エカテリンブルクで殺害]]されていたが、マールバラの救出劇のお陰で多くの[[ロマノフ家|皇族]]や[[貴族]]たちが命拾いした。その中には[[マリア・フョードロヴナ_(アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ皇太后]]の他、その娘の[[クセニア・アレクサンドロヴナ]]、孫の[[イリナ・アレクサンドロヴナ]]、その夫[[フェリックス・ユスポフ]]公爵、元帝国軍最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラヴィチ大公]]ら多数の皇族や貴族が含まれていた。また、[[アントーン・デニーキン]]将軍ら白軍の一部も国外への亡命を希望し、同乗した。
 
不幸にして、[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]とその一家([[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]と[[OTMA|4人の皇女たち]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]])は[[1918年|前年]]に幽閉先の[[イパチェフ館|エカテリンブルクで殺害]]されていたが、マールバラの救出劇のお陰で多くの[[ロマノフ家|皇族]]や[[貴族]]たちが命拾いした。その中には[[マリア・フョードロヴナ_(アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ皇太后]]ほか、その娘の[[クセニア・アレクサンドロヴナ]]、孫の[[イリナ・アレクサンドロヴナ]]、その夫[[フェリックス・ユスポフ]]公爵、元[[ロシア帝国軍]]最高司令官[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)|ニコライ・ニコラヴィチ大公]]ら多数の皇族や貴族が含まれていた。また、[[アントーン・デニーキン]]将軍ら白軍の一部も国外への亡命を希望し、同乗した。
 
大勢の[[難民]]たちを乗せたマールバラは、[[ロシア内戦|ロシアの内戦]]から安全なイスタンブールに到着し、これらの人々の多くはイギリスや[[フランス]]、そしてのちには[[アメリカ合衆国]]などへ逃れた。