「浄土宗」の版間の差分

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法然の没後、長老の[[信空 (浄土宗)|信空]]が後継となったものの、[[証空]]・[[弁長]]・[[幸西]]・[[長西]]・[[隆寛]]・[[親鸞]]ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
 
[[嘉禄]]3年([[1227年]])、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった([[嘉禄の法難]])。事の発端には、[[法性寺]]の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『[[選択本願念仏集]]』は[[禁書]]扱いを受け、[[東山 (京都府)|東山]]大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は[[壱岐国]]に、隆寛は[[陸奥国]]に配流されている。法然の遺骸は、[[太秦]][[広隆寺]]の来迎房円空に託され、[[1228年安貞]]2年([[安貞1228年]]2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。
 
その後、'''浄土四流'''(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の[[草野氏]]の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に[[浄土真宗]]として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも[[嵯峨 (京都市)|嵯峨]][[二尊院]]の[[湛空]]や[[知恩院]]を再興した[[源智]]、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。
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[[応仁の乱]]後、白旗派の手によって再興された知恩院は[[天正]]3年([[1575年]])に[[正親町天皇]]より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への[[香衣]]付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。さらに松平親忠の末裔である[[徳川家康]]が[[江戸幕府]]を開いたことによって浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の[[尊照]]と増上寺の[[慈昌|存応]]は、家康の崇敬を受けた。[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])に[[寺院諸法度]]の一環として[[浄土宗法度]]が制定され、知恩院が[[門跡寺院]]・第一位の本山とされ、増上寺はこれより下位に置かれたものの、「大本山」の称号と宗務行政官庁である「総録所」が設置された。これにより浄土宗は幕府の手厚い保護を受けることになる。なお、このとき西山派に対しては別個に「浄土宗西山派法度」が出されている。
 
江戸幕府が倒壊したあと、[[廃仏毀釈]]の混乱のなかから[[養鸕徹定]]・[[福田行誡]]らによって近代化が図られ、白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一され、現在の浄土宗の原型が成立する。[[第二次世界大戦]]後は[[金戒光明寺]]を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする浄土宗本派が分立するが、[[1961年]]([[昭和]]36年)の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、[[1977年]]に黒谷浄土宗も復帰した。現在の[[宗教法人]]としての「浄土宗」の代表役員は[[教務総長|宗務総長]]、責任役員は内局と呼ばれている。
 
一方、西山派は現在も宗教法人浄土宗とは別個に西山浄土宗(総本山[[光明寺_(長岡京市)|粟生光明寺]])・浄土宗西山禅林寺派(総本山[[禅林寺]])・[[浄土宗西山深草派]](総本山[[誓願寺]])の3派が並立した状態が続いている。また、江戸時代の改革運動の際に分裂した浄土宗捨世派(本山[[一心院]])の勢力も存在する。