「長州藩」の版間の差分

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長州藩士は毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つ<ref name="街道をゆく">{{Cite book|和書|author=[[司馬遼太郎]]|year=2005|title=[[街道をゆく]]21 [[神戸・横浜散歩、芸備の道]]|publisher=[[朝日新聞社]]|pages=32-33|id=ISBN 4-02-250121-9}}[http://publications.asahi.com/kaidou/21/index.shtml 司馬遼太郎 街道をゆく 公式ページ:第21巻 神戸・横浜散歩、芸備の道]</ref>。このため長州藩の始祖は毛利元就とする見方がある<ref name="時空旅人23"/>。彼らは元来が[[広島県]]-[[安芸国|安芸]]・[[備後国|備後]]を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。[[戦国時代 (日本)|戦国期]]までは[[山陽地方|山陽]][[山陰]]十ヵ国にまたがる領地を持ち、[[表日本]]の[[瀬戸内地方|瀬戸内]]海岸きっての覇府というべき広島から[[裏日本]]の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と[[徳川将軍家|徳川家]]への怨嗟の声でみちた<ref>{{Cite book|和書|author=[[司馬遼太郎]]|year=1969|title=[[歴史を紀行する]]|publisher=[[文藝春秋]]|pages=213-215|id=}}</ref>。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、[[知行]]も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる<ref name="街道をゆく"/>。
 
上述のような経緯もあり、長州藩では[[倒幕]]が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は[[倒幕]]の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。歴史学者の[[井野辺茂雄]]が毛利家の家史編纂者である[[中原邦平]]から聞いた話として著作に紹介したのが初出だが、原文では新年ではなく「毎月元日」となっている<ref>『幕末史の研究』、[[雄山閣]]、283頁</ref>。この伝説俗話について、2000年当時の毛利家当主・[[毛利元敬]]は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている<ref>『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2000年10月号「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。</ref>。
 
=== 江戸時代中期 ===
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