「ピョートル・バドマエフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
en:Peter Badmayev07:39, 22 May 2016の翻訳。
 
ru:Бадмаев, Пётр Александрович09:53, 24 марта 2016‎の翻訳、en:Green Dragon (order)04:42, 15 October 2016‎の抄訳。
4行目:
|画像=Badmaev P.A. 1913-16 Karl Bulla.jpg
|画像サイズ=
|画像説明=1914年
|出生名=ザムサラン・バドマエフ
|生年月日=[[18501851年]]
|生誕地={{RUS1883}} [[ブリヤート共和国|ブリヤート]]
|没年月日=[[1920年]](70(71歳没)
|死没地={{RUS1917}} [[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]
|墓地={{仮リンク|シュバーロフ墓地|ru|Шуваловское кладбище}}
|国籍=
|別名=
|出身校=[[サンクトペテルブルク大学]]
|職業=[[医師]]、[[外交官]]
|団体={{仮リンク|グリーン・ドラゴン|ru|Зелёный дракон (орден)}}
|著名な実績=
|宗教=[[ロシア正教会]]
|配偶者=ナジェーダ・ヴァシリエヴナ
}}
'''ピョートル・アレクサンドロヴィチ・バドマエフ'''([[ロシア語]]:{{lang|ru|Пётр Александрович Бадмаев}}, [[英語]]:{{lang|en|Pyotr Aleksandrovich Badmayev}}, [[18501851年]]<ref name="anyma2004">Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 25.</ref> - [[1920年]]<ref>{{Cite web | url = http://www.petersburg-mystic-history.info/people-bad_1.html| title = Doctor Badmaev| publisher = MISTICS OF SAINT PETERSBURG| accessdate = 2016-10-21}}</ref>)は、[[ブリヤート人]]の医師、官僚。19世紀末から20世紀初頭の[[ロシア帝国]]宮廷で活動した。
 
== 人物生涯 ==
=== 出生 ===
1850年に仏教徒の家に生まれる。長兄アレクサンドル・バドマエフは[[チベット医学]]を学び医師となり、その技量を[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]に認められ、[[サンクトペテルブルク]]で医療活動に従事することを許可されていた<ref name="russianow">{{Cite web | url = https://jp.rbth.com/arts/2014/08/30/10_49945| title = ロシアの仏教、10の事実| publisher = ロシアNOW| date = 2014-08-31| accessdate = 2016-10-21}}</ref>。また、次兄スルティムはサンクトペテルブルクで薬局を経営しており、バドマエフが[[イルクーツク]]の[[ギムナジウム]]を卒業した後に彼をサンクトペテルブルクに招いた。
アガ草原で遊牧生活を営む仏教徒の家に生まれる。生年については諸説あり、1849年や1850年<ref name="anyma2004">Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 25.</ref>という説があるが、[[ロシア]]の百科事典では1851年説を採用している<ref>[http://ricolor.org/history/eng/medicina/badmaev/ внук П. А. Бадмаеве — писатель Б. С. Гусев о деде]</ref>。また、[[チェーカー]]の調査では1810年に生まれたとされている。1919年8月10日にバドマエフは「私は109歳だ」と発言したとされ、バドマエフの娘は「私が生まれた時(1907年)、父は100歳だった」と語っている。
 
=== 医師 ===
バドマエフは[[サンクトペテルブルク大学]]で[[東洋学]]と医学を学ぶかたわら陸軍士官学校にも通ったが、どちらか一方は卒業していない。1872年に上流階級の令嬢ナジェーダ・ヴァシリエヴナと結婚し、診療所を開設した<ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 26.</ref>。その後、[[アレクサンドル3世]]が代父となり[[ロシア正教会]]の洗礼を受けて外務省アジア局に勤務し、1875年からは兄同様に医師としても活動を始め、[[ロマノフ家]]の皇族たちの治療に携わるようになった<ref name="russianow"/>。著名な患者として内務大臣の[[アレクサンドル・プロトポポフ]]がおり、また、[[フェリックス・ユスポフ]]や[[グリゴリー・ラスプーチン]]によると、[[ニコライ2世]]、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]にも薬を処方していたという。当時のロシア貴族の間では[[神秘主義]]や[[チベット]]世界観が流行しており、バドマエフもチベット医学書の翻訳をしている<ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. [http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf]. Retrieved 2012.03.27. P. 29.</ref>。
[[File:Badmaev P A.jpg|thumb|200px|[[エルミタージュ美術館]]収蔵のバドマエフの肖像画]]
1871年に[[イルクーツク]]の[[ギムナジウム]]を卒業したバドマエフは[[サンクトペテルブルク大学]]に入学して[[東洋学]]と医学を学び、1875年に卒業した。医学を学ぶ傍ら陸軍士官学校の軍医コースにも通ったが、卒業はしていない。その後、兄アレクサンドルの伝手で[[アレクサンドル3世]]が代父となり[[ロシア正教会]]の洗礼を受け、名前を[[ピョートル1世]]にあやかり「ピョートル・バドマエフ」に改名した。1875年に外務省アジア局に入省し、兄アレクサンドルの死後はポクロンナヤの丘に薬局を開設して[[ロマノフ家]]の皇族たちの治療に携わるようになった<ref name="russianow"/><ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 26.</ref>。そのため、バドマエフはアレクサンドル3世や[[ニコライ2世]]から信頼を得るようになった。
 
バドマエフは[[サンクトペテルブルク大学]]薬局の庭[[東洋学]]と医学を学ぶか栽培しわら陸軍士官学校にも通ったが、どちらか一方は卒業していない。1872年に上流階級の令嬢ナジェダ・ヴァシリエヴナと結婚し、診療所開設調合した<ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf. Retrieved 2012.03.27. P. 26.</ref>。そ独自後、[[アレクサンドル3世]]が代父となり[[ロシア正教会]]の洗礼受けて外務省アジア局に勤務処方、1875年からは兄同様に医師としても活動を始め、[[ロマノフ家]]の皇族ちの治療に携わるようになった<ref name="russianow"/>。著名な患者として内務大臣の[[アレクサンドル・プロトポポフ]]がおり、また、[[フェリックス・ユスポフ]]や協力関係にあった[[グリゴリー・ラスプーチン]]によると、[[ニコライ2世]]、[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]、[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]にも薬を処方していたという。当時のロシア貴族の間では[[神秘主義]]や[[チベット]]世界観が流行しており、バドマエフもチベット医学書の翻訳をしている<ref>Saxer, Martin, 2004, ''Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. [http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf]. Retrieved 2012.03.27. P. 29.</ref>。1877年に上流階級の令嬢ナジェーダ・ヴァシリエヴナと結婚した。1881年から1883年にかけて[[清]]、[[チベット]]、[[モンゴル国|モンゴル]]を旅し、その途中で[[クロンシュタットのイオアン]]の元を訪れている<ref name=autogenerated1>[http://web.archive.org/web/20050504053645/http://www.profile.ru/items/?item=5362 «Петр Бадмаев. Дело врача» Е.Иваницкая, А.Гамалов]</ref>。
外務省アジア局では[[グレート・ゲーム]]におけるロシア外交に関与し、諜報員の身許を偽装するため[[チタ]]に商社を設立した<ref name="autogenerated1999">Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 116.</ref><ref>Saxer, Martin, 2004, ''[http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.]'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. Retrieved 2012.03.27. Pp. 32-34.</ref>。また、[[中国]]、[[モンゴル]]、チベットの併合を熱心に主張し、実現のために[[モンゴル人]]を武装化して尖兵に利用することを提案していた<ref name="autogenerated1999"/>。この提案はアレクサンドル3世には受け入れられなかったが、バドマエフは以降も独自に計画を進めモンゴル、チベットを相次いで訪れた他、ニコライ2世の側近である{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|en|Esper Ukhtomsky}}に計画実現を訴えている<ref>Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 118.</ref>。しかし、ニコライ2世も父帝と同様にバドマエフの計画を「幻想的」と一蹴して相手にしなかった<ref name="russianow"/>。
 
=== 外務官僚 ===
[[File:Дом Бадмаева.jpg|thumb|200px|left|ポクロンナヤの丘にあったバドマエフの屋敷。ソ連時代に道路工事のため破壊された。]]
外務省アジア局では[[グレート・ゲーム]]におけるロシア外交に関与し、諜報員の身許を偽装するため[[チタ]]に商社を設立した<ref name="autogenerated1999">Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 116.</ref><ref>Saxer, Martin, 2004, ''[http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.]'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. Retrieved 2012.03.27. Pp. 32-34.</ref>。また、[[中国]]、[[モンゴル]]、チベットの併合を熱心に主張し、実現のために[[モンゴル人]]を武装化して尖兵に利用することを提案していた<ref name="autogenerated1999"/>。この提案商社でアレクサンドル3世1895年は受け入れられなかったが、バドマエフは以降も独自に計画を進めモンゴル、チベット初の民間新聞相次いで訪れ発行した他、ニコライ2世競走馬側近である{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|en|Esper Ukhtomsky}}に計画実現品種改良訴えてる<ref>Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 118.</ref>。しかしニコライ2世も父帝と同様1909年バドマエフは金鉱山計画採掘「幻想一蹴て相手た商社を新た設立なかった<ref name="russianow"/>ている
 
[[極東]]はアレクサンドル3世が[[シベリア鉄道]]を敷設したことにより急速に開発が進み、バドマエフは鉄道を南へ伸長してチベットにも繋げることを計画し、「[[蘭州]]、チベット、モンゴルを鉄道で繋ぐことで、中国の経済はロシアの手中に落ちます。これにヨーロッパ勢力は対抗できません」と提案している。首相兼蔵相の[[セルゲイ・ヴィッテ]]はバドマエフの提案に興味を持ち、アレクサンドル3世に対して「ロシアの国益の観点から見て、バドマエフの提案は非常に重要な政治的意義を持ちます」と報告しているが、この提案も実現することはなかった。
 
また、[[イギリス]]に占領されることを危惧し、その前に中国、モンゴル、チベットを併合するべきと熱心に主張し、1893年に計画実現のために[[モンゴル人]]を武装させて尖兵に利用することをアレクサンドル3世に書面で提案していた<ref name="autogenerated1999"/>。バドマエフは「中国は専制支配の国のため、立憲君主国家のイギリスよりも専制君主国家のロシアに支配されることを容易に受け入れる」と主張していた。アレクサンドル3世は「提案は素晴らしいものだが、成功の可能性を信じることは難しい」と返答して受け入れなかったが、バドマエフはその後も独自に計画を進めモンゴル、チベットを相次いで訪れた他、ニコライ2世の側近である{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|en|Esper Ukhtomsky}}に計画実現を訴えている<ref>Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 118.</ref>。しかし、ニコライ2世も父帝と同様にバドマエフの計画を「幻想的」と一蹴して相手にしなかった<ref name="russianow"/>。
 
1904年1月1日に「ロシアはチベットに関して有効な政策を出していません。イギリスはチベットを狙っていますが、ロシアの人々は誰もイギリスの真の恐ろしさを理解していません」とニコライ2世に書簡を送っている。2日後、バドマエフはニコライ2世の個人的な依頼を受けチベットに向かった。ニコライ2世の依頼は「チベットの現状とチベット人の反英感情の醸成」というものだったが、[[日露戦争]]の勃発により工作の遂行を断念している。1911年から1916年にかけて、モンゴルへの鉄道伸長計画に参加した。
 
=== 死去 ===
1917年に[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発すると、バドマエフは[[ロシア臨時政府]]に逮捕され[[ヘルシンキ]]に追放される。1919年末に[[エカチェリーナ2世級戦艦]]の[[チェスマ_(戦艦・初代)|チェスマ]]に乗せられ、1920年初頭にペトログラード(サンクトペテルブルクから改名)の収容所に移送される。同年にバドマエフは収容所内で死去し、遺体は8月1日に{{仮リンク|シュバーロフ墓地|ru|Шуваловское кладбище}}に埋葬された。
 
== 家族 ==
1850年に仏教徒の家に生まれる。長兄アレクサンドル・バドマエフは[[チベット医学]]を学び医師となり、その技量を[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]に認められ、[[サンクトペテルブルク]]で医療活動に従事することを許可されていた<ref name="russianow">{{Cite web | url = https://jp.rbth.com/arts/2014/08/30/10_49945| title = ロシアの仏教、10の事実| publisher = ロシアNOW| date = 2014-08-31| accessdate = 2016-10-21}}</ref>。また、次兄スルティムはサンクトペテルブルクで薬局を経営しており、バドマエフが[[イルクーツク]]の[[ギムナジウム]]を卒業した後に彼をサンクトペテルブルクに招いた
 
甥ニコライ・バドマエフはキスロボーツクにチベット医学の診療所を開業し、[[マクシム・ゴーリキー]]、[[アレクセイ・トルストイ]]、[[ニコライ・ブハーリン]]、[[ヴァレリヤン・クイビシェフ]]などの[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]幹部の治療を行っていたが、1939年に逮捕され処刑された。
 
妻ナジェーダは20年間収容所生活を送った後釈放され、孫とともに晩年を過ごした。孫は後に祖父バドマエフの回顧録を出版している<ref name=autogenerated1 />。バドマエフの親族は現在もチベット医学の研究に携わっている<ref>[http://www.vmdaily.ru/article/61814.html Интервью с доктором медицины В. Бадмаевым, родственником П.Бадмаева]</ref>。
 
== チベット神秘主義との関係 ==
バドマエフはチベット神秘主義組織{{仮リンク|グリーン・ドラゴン|ru|Зелёный дракон (орден)}}の一員だった<ref>[http://analysisclub.ru/index.php?page=iraq&art=2751 М.Бурлешин «Зелёный Дракон Тибета»]</ref>。グリーン・ドラゴンは[[神智学協会]]や[[トゥーレ協会]]と関係を持ち、バドマエフの他にアレクサンドラ皇后やラスプーチン、[[カール・ハウスホーファー]]もメンバーだったという説がある<ref name="B">[http://maybelogic.blogspot.ru/2011/01/seven-heads-of-green-dragon.html "The seven heads of the Green Dragon" (about "Les Sept têtes du Dragon Vert" book by Teddy Legrand)]</ref><ref name=zdt>[http://analysisclub.ru/index.php?page=iraq&art=2751 Михаил Бурлешин «Зелёный Дракон Тибета»]</ref>。
 
== 出典 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* Проект включения Тибета, Монголии и Китая в Российскую империю «О задачах русской политики на азиатском Востоке», 1893.
* Главное руководство по врачебной науке Тибета «[[Жуд-ши]]». — СПб., 1903. — 159 с. (Переиздание: М.: Наука. 1991.)
* Ответ на неосновательные нападки членов медицинского совета на врачебную науку Тибета. — СПб., 1911. — 72 с.
 
{{デフォルトソート:はとまえふ ひようとる}}
[[Category:18501851年生]]
[[Category:1920年没]]
[[Category:ブリヤート人]]