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===流行作家となる===
帰国後は[[松本泰]]主宰『[[探偵文芸]]』に参加し、[[森下雨村]]を知る。東京で弟の潾二郎のいる下宿に住んだが、そこにいた函館時代の友人[[水谷準]]の紹介で<ref>水谷の話では水谷の紹介なしで新青年編集部に原稿を持ち込んだところ[[森下雨村]]が採用したという(月報4 座談会 新青年あれこれ『 新青年傑作選』 第4巻 翻訳編、立風書房、1991年</ref>、1925年に『[[新青年 (日本)|新青年]]』に谷譲次名で「ヤング東郷」「ところどころ」など、滞米中の実体験に基づき、アメリカで生きる日本人(日系人)単純労働者の生き方をユーモラスに描いた「めりけんじゃっぷ」ものを掲載し始める。続いて『[[探偵文芸]]』に林不忘名で時代物「釘抜藤吉捕物覚書」、『[[探偵趣味]]』『[[苦楽]]』誌などに、メリケンもの、現代探偵小説を発表し始める。当時刊行中の[[平凡社]]『現代大衆文学全集』35巻の「探偵小説 新人作家集」にも「釘抜藤吉捕物覚書」が5編が収録された。
 
英語の翻訳研究グループで香取和子と知り合い、1927年に結婚。鎌倉向福寺の一室を借りて新生活を始める。当初和子は生活のために、[[鎌倉高等女学校]]で教鞭も取った。しかしこの年に[[嶋中雄作]]に認められて、『中央公論』に「もだん・でかめろん」を連載し、一躍人気作家となる。『サンデー毎日』『[[女性 (雑誌)|女性]]』などにも作品を発表し、[[東京日日新聞]]・[[大阪毎日新聞]]に、'''林不忘'''の筆名で時代小説「新版大岡政談」(後に「[[丹下左膳]]」)の連載を開始する。片目片腕のニヒルな剣豪ヒーロー丹下左膳の冒険談はたちまち人気小説となり、早くも連載中の[[1928年]]には最初の映画化がなされた。
 
この「新版大岡政談」の映画化は、[[帝国キネマ]](左膳役[[松本田三郎]])、[[東亜キネマ]]([[團徳麿]])、[[マキノ・プロダクション]]([[嵐長三郎]])、[[日活]]([[大河内伝次郎]])の43社競作となる過熱ぶりで、中でも日活の[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の『新版大岡政談(第一篇)(第二篇)(解決篇)』は、1928年[[キネマ旬報]]ベストテン3位になるなど評価も高く、大河内の「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」という独特の台詞回しとともに強い印象を与えた<ref>[[縄田一男]](『丹下左膳(1)』光文社 2004年)</ref>。
 
また1928年から1年超にわたって、中央公論社特派員の名目で夫婦で、[[釜山]]から[[シベリア鉄道]]を経てヨーロッパ14か国を訪問し、その旅行記は'''谷譲次'''名の「新世界巡礼」として同誌に連載された(単行本化時に「踊る地平線」)。この時夫人の和子も『[[婦人公論]]』に[[ロンドン]]、[[パリ]]の滞在記を掲載している。
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===執筆生活===
毎日新聞には1930年から33年まで部長待遇の契約だったが、城戸元亮取締役会長の辞任騒動に追従し、連載中だった丹下左膳の続編『続大岡政談』は読売新聞に題名も『丹下左膳』として連載された。1933年からは新潮社で『一人三人全集』全16巻を刊行開始。1934年に[[鎌倉]]に新居を構える。この年には東京日日新聞の朝刊に「新しき天」、夕刊に「丹下左膳」を同時に連載するということもあった。『[[講談倶楽部]]』では1928年に「十二時半」を掲載した際に原稿料で折り合わず、その後講談社には執筆していなかったが、1934年から『[[キング (雑誌)|キング]]』『講談倶楽部』両誌同時に連載開始、「悲恋華」は連載3回目で読者投票1位となって『講談倶楽部』五大小説とも呼ばれ<ref>(岡田)</ref>、並行して35年に時代もの「四季咲お美乃」を林不忘名で連載を始めていた。
 
1935年6月、『一人三人全集』の完結した2週間後に鎌倉の自宅で35歳の若さで急死。持病の喘息の発作だったという。この時に連載中の作品として、『講談倶楽部』2作の他に谷譲次名「新巌窟王」、林不忘名「時雨伝八」「蛇の目定九郎」「白梅紅梅」、牧逸馬名「大いなる朝」「虹の故郷」「双心臓」があった。絶筆となった「都会の怪異 七時三十分」は、『[[日の出 (雑誌)|日の出]]』編集者の[[和田芳恵]]が先に聞いていた結末部分を書き足して掲載された。また文壇付き合いのなかった梅太郎の通夜には、嶋中雄作、『[[オール読物]]』編集長の菅忠雄、元東京日々学芸部長の新妻莞に3人が付き添った。墓所は[[鎌倉市]][[比企谷]][[妙本寺]]、海太郎が腰を下ろして想を練ったという巨石の上に墓石が立てられた。この超多忙な中の急死にあって[[菊池寛]]は「ジヤアナリズムが、作家に無理な仕事をさせなくなるとすれば、我々に取っては、一つの救いである。」(『文藝春秋』1935年10月号)とも書いている。
 
死後にも[[川口松太郎]]「新篇丹下左膳」、[[谷屋充]]「新作丹下左膳」、[[陣出達朗]]「女左膳」などの左膳ものが書かれ、映画・演劇化も数多く行われている。
 
谷の「メリケン一代男」は戦後『[[洋酒天国]]』にも再録された。[[中井英夫]]は長谷川のもっとも好きな作品として本作を挙げ、「痛快なテンポで運ばれる」「文章の心意気、きっぷのよさは比類が無い」、また繰り返しのおかしみの表現を「日本の現代文学に忘れ去られたものの一つは、まさにこうした江戸の笑い」であると評している<ref>中井英夫「哀しみの墓 私と谷譲次」(『めりけんじゃっぷ商売往来』現代教養文庫 1975年)</ref>。少年時代に牧逸馬などを読みふけったという[[中田耕治]]はこれらめりけんじゃっぷものを国籍喪失者の文学と呼び、長谷川の文学の原点としている<ref>中田耕治「国籍喪失者の文学」(『テキサス無宿』現代教養文庫 1975年)</ref>。
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*『上海された男』(『新青年』1925年4月)
*『めりけんじゃっぷ商売往来』(『新青年』1927年)
*『テキサス無宿』改造社 1929年
*『モダンデカメロン』(『中央公論 1927年5-12月)
*『踊る地平線もだん・でかめろん改造社 1929年(『中央公論』1928 192785-1929年412月)
*『踊る地平線』中央公論社 1929年(『中央公論』1928年8-1929年4月)
*『大陸』(『中央公論』1930年1-5月)
*『新巌窟王』(『日の出』1934年1-11月)
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*『魔像』(『[[文芸倶楽部]]』1930年)新潮社『一人三人全集』1934年
*『刃傷未遂』(『サンデー毎日特別号』1931年3月)
*『坊主長庵』(『[[オール読物]]』1932年1−5月)
*『口笛を吹く武士』(『サンデー毎日』1932年3月)
*『丹下左膳・こけ猿の巻』(『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』1933年6-11月)
*『丹下左膳・日光の巻』(『読売新聞』1934年1-9月)
*『稲生播磨守』(『講談倶楽部』1935年1月)
*『時雨伝八』(『キング』1935年1-8月)
*『犬娘』(『主婦之友』1935年1-11月)
*『蛇の目定九郎』(『富士』1935年2-8月)
*『四季咲お美乃』(『講談倶楽部』1935年3-9月(未完))
*『白梅紅梅』(『主婦之友』1935年4-8月)
;牧逸馬名義
*『紅茶と葉巻 現代ユーモア全集12』小学館・集英社 1928年(『新青年』1926年3-5月)
*『水晶の座』(『[[女性 (雑誌)|女性]]』1927年11-12月)
*『第七の天』(『[[婦人公論]]』1928年1-5月)
*『白仙郷』(『[[苦楽]]』1928年1-5月)
*『十二時半』(『講談倶楽部』1928年3月)
*『世界怪奇実話』(『中央公論』1929年10-1933年8月)
*『この太陽』中央公論社 1930年(『毎日新聞』1930年1-8月)
*『ヴェランダの椅子 現代ユーモア全集22』小学館・集英社 1930年
*『モダーン読本』天人社 1930年
*『愛すべく』(『サンデー毎日特別号』1931年1月)
*『七つの海』(『毎日新聞』1931年6-7月)
*『運命のSOS』中央公論社 1931年
*『海のない港』中央公論社 1931年
*『相思樹』中央公論社 1932年(『主婦之友』1931年5-12月)
*『呆れたものですね』(『主婦之友』1932年1-4月)
*『第二次世界戦争発端』(『朝日』1932年3-12月)
*『地上の星座』(『主婦之友』1932年5-9月)
*『心の波止場』(『日の出』1932年8月)
*『戦争とはなんだ』中央公論社 1932年
*『新しき天』(『毎日新聞』1933年1-7月)
*『大いなる朝』(『キング』1934-35年(未完))
*『悲恋歌』(『講談倶楽部』1934年2-1935年8月(未完))
*『暁の猟人空気になった男』(『朝日新聞』1934年84-126月)
*『暁の猟人』新潮社 1935年(『朝日新聞』1934年8-12月)
*『虹の故郷』(『主婦之友』1934年7-10月)
*『双心臓』(『報知新聞』1935年1-6月)
;作品集
*『一人三人全集』(全16巻)新潮社 1933-35年
*『カラー版国民の文学10 林不忘』河出書房 1968年(「丹下左膳(鈴川源十郎の巻)」「魔像」収録)
 
===訳書===
(牧逸馬名義)
*『猶太人ジェス』
*『バッド・ガール』中央公論社 1931年
 
===単行本(入手容易なもの)===
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==参考文献==
*[[興津要]]『大衆文学の映像』桜楓社 1967年
*[[大衆文学研究会]]「年譜」、[[多田道太郎]]「解説」(『カラー版国民の文学10 林不忘』)
*[[尾崎秀樹]]『大衆文芸地図』桃源社 1969年
*岡田貞三郎『大衆文学夜話』青蛙社 1971年