「長州藩」の版間の差分

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[[ファイル:Motonari Mouri.jpg|thumb|毛利元就]]
[[File:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|thumb|right|120px|一文字に三つ星]]
藩主の[[毛利氏]]は[[大江広元]]の四男を祖とする一族<ref name="kotobank"/><ref name="時空旅人23">{{Cite book|和書|author=|date=2015-1|title=[[男の隠れ家]]特別編集 時空旅人 Vol.23 「長州藩 成立から倒幕まで」 |chapter = 中国地方に覇を唱えた名 長州藩の始祖・毛利元就の偉業 |publisher=[[三栄書房]]|pages=16-17|id=[[JANコード]] 4910052650152}}</ref>。鎌倉時代に、越後国佐橋荘を領した毛利経光は、四男の[[戦国毛利代 (日本)|戦国]][[安芸国]]に土着吉田庄を分与ていた分家からを立てる<ref>越後国佐橋荘は嫡男の[[毛利元就基親|基親]]が出ると一代に相続た。</ref>。時親の子・[[国人毛利貞親|国人領主]]から[[戦国大名貞親]]に脱皮[[大内氏]]孫の親衡は越後に留まり安芸の所領の大部分は間接統治[[尼子氏]]いう形をとったが<ref>毛利貞親・親衡は越後毛利領を併せ拠点に南朝に味方し活動。</ref>最盛期南北朝時代時親の曽孫・[[中国地方毛利元春|元春]]十国は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治<ref>吉田郡山城の築城者[[北部九州]]いわれる時親が曾孫一部元春領国に置く最大級の大名に成長後見した</ref name="時空旅人23"/>するようになる
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[毛利元就]]が出ると一代にして[[国人|国人領主]]から[[戦国大名]]に脱皮、[[大内氏]]の所領の大部分と[[尼子氏]]の所領を併せ、最盛期には[[中国地方]]十か国と[[北部九州]]の一部を領国に置く最大級の大名に成長した<ref name="時空旅人23"/>。
 
元就の孫の[[毛利輝元]]は[[豊臣秀吉]]に仕え、天正19年(1591年)3月、[[安芸国|安芸]]・周防・長門・[[備中国|備中]]半国・[[備後国|備後]]・[[伯耆国|伯耆]]半国・[[出雲国|出雲]]・[[石見国|石見]]・[[隠岐国|隠岐]]の1201125000石を安堵([[石見銀山]]50万石相当、また以前の[[検地]]では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を[[吉田郡山城]]からより地の利の良い[[広島市|広島]]に移す。
 
秀吉の晩年には[[五大老]]の一人に推され、[[関ヶ原の戦い]]では西軍[[石田三成]]方の名目上の総大将として担ぎ出され[[大坂城]]西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の[[吉川広家]]により[[徳川家康]]に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領[[安堵]]の約束を反故にして毛利家を[[減封]]処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の[[毛利秀就|秀就]]に周防・長門229万8480石2斗3合<ref>慶長5年の検地による石高。慶長10年([[1605年]])の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。</ref>を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の[[毛利秀元]]と重臣の[[福原広俊]]・[[益田元祥]]らが藩政を取り仕切った。
 
周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年([[1605年]])御前帳に記された石高である。慶長12年([[1607年]])、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年([[1610年]])に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現[[岩国市]][[錦町 (山口県)|錦町]]・[[本郷村 (山口県)|本郷町]])では[[山代慶長一揆|一揆]]も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。慶長18年([[1613年]])、この時[[江戸幕府]]に提出する御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は[[本多正信]])は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の[[広島藩]]主[[福島正則]]49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は[[寛永]]2年([[1625年]])には65万8299石3斗3升1合、[[貞享]]4年([[1687年]])には81万8487石余であった。[[宝暦]]13年([[1763年]])には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。
 
また、新しい居城地として防府・山口・[[萩市|萩]]の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ[[日本海]]に面し、隣藩の[[津和野城]]の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。